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🚥 さんがブースト

差別は絶対にいかんこと、というのは前提として、「差別発言に対してNSのフォーマット提供者が中央集権的に禁止すべきかどうか」というのが次の問いか。

これは微妙だよねえ。「フォーマットがちゃんと禁止します」という運用を実行すると、次には「禁止しないからこれはお墨付きをもらっています(与えています)」という状況が生まれる。「フォーマット=ルールブック」の状況といってもいい。

差別に断固として立ち向かうのは絶対に必要。でもそのために「フォーマット=ルールブック」の状況にすると、「ルールブック」をわたしたちの外においていていいの、フォーマット提供者をルールブックにしていいの、という問題が生まれる。

ぼく個人は、差別への対峙は各アカウント、あるいはフォーマットでないかたちでも可能なので、「フォーマット=ルールブック」にしないというのはひとつの見識だと思う。差別への対抗策はひとつではない。

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「サーバーを流れる全ての発言を把握し差別がないように管理しろ」なんて言ってない。と言われても、じゃあ「通報された・あるいはたまたま目についた投稿をチェリーピックして、管理者の良心と主観でランダムに裁定する」ってこと? それは果たして公正なのかって疑問がさらに湧く

そういったモデレーションができない小さな管理者はsnsをホストすべきではない。になると、結局インターネットには大きいスポンサーついた巨大プラットフォームしか存続できないことになり、それはそれでディストピア感あるなと

大量のタイムラインをチェックし差別の煽動がないか確認するには膨大な時間とお金が必要になる。国会議員やTwitter社員には給料が出てて、仕事としてそれをやる余地がある。じゃあ、個人でサービス運営してる一人にそれをやることは可能か? もちろん「あらゆる差別を容認すべきではない」という理念は全ての人で共有すべきでしょう。でも「サーバーを流れる全ての発言を把握し差別がないように管理しろ」という、非常に具体的で多大な負担を強いる労働を、たった一人の管理者に背負わせることはできるのか? 背負わせようとすることは妥当なのか? が疑問

こういう問題があるのを私は見た。こいうところが間違っていると思う。こんな風に傷ついている人がいる。その人たちを守るために私たちにできること・考えるべきことがある。と広く語りかけることは大事だと思うけど「その考えが絶対的な正義であると管理者の承認を得ないと気が済まない」なムーブになると、別の危うさを感じる。じゃあ我々は管理者に正義がなんたるかを全部握らせるのか。管理者が何も言わなければそこで議論はおしまいでサヨナラなのか。YESと言ってくれる裁定者がいる理想郷を探し続けるのか。というのが普通に疑問

そしてこういうことを発言するたびに「安全な場所から偉そうなことペラペラ言って嫌なやつだな」という自己嫌悪も同時発生する。インターネットとの向き合い方いまだにわからない

もちろん特定の属性の人に対する恐怖を換気するような扇動的な発言を毎日毎日繰り返してるようなアカウントは脅威なので放置するわけにはいかないんだけど、それらをネットワークから遮断すれば解決なのか、というのがTwitterに住んでると段々わからなくなってきてたし

「すべての人間は生れながらにして自由であり尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言)は自明だと思うけど、じゃあ私たちが社会で生きていて具体的にどんな発言や行動をすることによってその理念を脅かし得るのかって自明ではないというか、根気よく議論し分かってもらうことが必要であって、そのための過程で「この行動が差別とわからない奴は差別主義者だ」「学びが足りないし人権意識が足りないからこんなこともわからないんだ」みたいにスパッと切ることにあまり意味を感じられないというか

土曜の朝からたくさん自語りできて気持ちよくなれて良かったです。
さあそうじするか

何か頭いい子が多いって聞いてたから、これくらいわかるのかなーとおもっちゃって! でも流石にダメでしたね! ハハハ! みたいな、普通に煽り入ってるとこもめちゃくちゃ良い(悪い)性格してそうで好きだった。

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なので冷笑主義でインテリでミソジニーな雑魚オタクおじさんみたいなのインターネットで見るたびに「ああ、お父さんみたいな人か」と妙に解像度あがる

ただそういう父親はマッチョなコワモテ親父……ではなく、ガリガリに痩せた瓶ぞこメガネの陰キャのSFオタクおじさんだったので、娘たちも普通に「うるせーんだよ親父!」と物理で対抗(取っ組み合いの喧嘩)してた。カオス過ぎる

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なんかパンチ足りないと思ったら「女に免許と選挙権を与えるな」だった。ひどい

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父親とかは「女に免許を与えるな」「バカとブスは生きてる価値がない」みたいな人だったので、家庭以外の環境で色々な気づきを得られたのはただただ運が良かったとしかいいようがない。

その社会科の先生、赴任直後のテストで論述試験を出して進学校なのに平均点50点を下回る結果となり「出題が悪い」とめちゃくちゃ他の教員に怒られるという尖った先生で大好きだったな。「とても優秀な生徒が多いと聞いていたので、配属が嬉しくて張り切ってしまいました。でもよく考えたら大学で出すような内容だった。本当にすみませんでした」みたいにションボリしてて本当に可愛かった。大好きだった。(さりげない母校age失礼

他に、社会問題ディスカッション好き体験として、社会科の先生が学期が始まる最初に「高齢者、子供、健康な成人が同じスタートラインからヨーイドン!で競争するのと、高齢者や子供にはそれぞれに応じたスタートラインを設定するの、どちらが平等だと思う?」みたいなお題出してきて、当時の私は「前者が平等だ」と答えたんだけど(だから今も根本にはそういうマインドがあるかもしれない)先生は私を否定せず、優しく笑顔で「平等であるとはどんな状態なのか」を一学期かけて授業を通して説明した結果、最終的に私は「平等な社会とは後者の状態なんだな」と理解できたみたいな体験がある。
あとその先生が好きになり過ぎて、テストでクラス一位を取れないと落ち込み「とても良い結果だよ。何でそんなに落ち込んでるの?」と励まされるたびに(あなたが好きなので一番をとりたかったんです)と心の中でだけ呟いていたという甘酸っぱい思い出がある。

政治の話するときに「意見交換して新たな視点を得る、自分の偏見や過ちに気づく」という期待値があるので「インターネット政治バトル!もっとも正しい意見を表明した人が勝ち!」みたいなの見てて、なんか違うなーになるんだろうな

まあでも本当に、政治の話を喧嘩しないようにする訓練って、普通に必要だと思うよ。民主主義としてさ。
とかいうと「めちゃくちゃ差別されてて怒って泣いてる人を『冷静になって落ち着いて』と諌める」トーンポリシングの容認に繋がらないか? みたいな問題も出てくるけどさ。ほんとむずかしーよな。政治

あと実家が破産した時の弁護士が共産党員だったので共産党と社民党(今おばさんが所属してるらしい)に対しては「がんばってね」の気持ちがあるけど、特定にご贔屓するまでにいたる政党は未だにないなー、自民以外は名前コロコロ変わるしさあ。

政治の話が好きな原体験として、子供の頃に学童代わりに旧社会党員だったおばさんの家に預けられてたのがあって、そこでは大皿いっぱいの料理がでかいテーブルに並べられ、車いすの人、幼稚園の先生、画家、登山家、新聞記者、普通のサラリーマンなどが集まり飯を食いながら社会問題について議論をしてて、私は参加することなく部屋の隅で星新一を読みながら聞き耳だけ立ててた。大人たちは真剣に議論するけど、特定の政党や個人を批判することはなかった。私に意見を迫ることもしなかった。お菓子くれるだけだった。優しく、真剣で、真面目な人たちだった。なので、それが良い体験として未だに残っているおかげで、政治の話は怖くないし、飯を食いながらお互いを尊重して話をすることなんだみたいな感覚が残っている。彼らが社会党員だっだみたいなのも、私が成人して随分後になってから初めて知ったし、当時はなんかディスカッションが大好きな人たちが単に集まってるだけと思ってたけど

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