中国人キャラは「怪しく胡散臭い」という人間性のステレオタイプに加えて、外見にもステレオタイプが付与されている場合も多い。
糸目(眯眯眼という侮華表象の名残という説も)、弁髪(または三つ編みや一部長い髪の一つ結び)、改造チャイナ服(中華テイストを感じられるキャラ付けのための服装)、ギザギザの歯(悪食ステレオタイプから来る表象)などの有徴化が、特に散見される例だ。
また、いまだに協和語(日本が実質的に植民地支配した中国は満州で同化政策の一環として作り広めようとした簡易な日本語)を基にしたインチキ訛りの「〜アルよ」や、片言を匂わすカタカナの「ワタシ」「〜ネ」の使用など、発話においてもステレオタイプが確立して長い。
最近だと人気漫画『呪術廻戦』においても、中国人/中国語話者を表象したキャラが「悪」と結び付けられるエピソードがあった (私は『呪術廻戦』の読者ではないが、友人から知らされて該当回を確認している)。日本国内でテロを起こすことを目的とする敵役(悪役?)がおり、テロ始動に向けた密約会議においてその敵役が中国語を話していたことが話題になっていた。
このように、「裏切り者/テロリスト = 中国人/中国語話者」と人気作に表象されることも、もう慣れてしまった。2/3
繰り返し再生産されるステレオタイプな中国人キャラの話。
この投稿が流れてきて、サンリオもステレオタイプ中国人キャラ出してくるのか、と思った。ハンギョドン含めサンリオ好きだから悲しいが、日本のコンテンツにおいて、中国人表象のキャラは毎度これなので悲しみよりも「やっぱりね、そうでしょうね」という気持ちの方が大きい。
ここ(https://x.com/fragaria_sanrio/status/1714929407226433685?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw) に書いてあるように「怪しくうさんくさい言動が多く、腹の底が掴めない」者としてばかり、中国人/中国語話者は表現されてきた。
このサンリオ作品『フラガリアメモリーズ』だけでなく、「怪しく胡散臭い中国人」というのは他の作品でも腐るほど再生産されてきたステレオタイプだ。
この悪しきステレオタイプが中国人に対してどういうイメージを流布し、日本に住むまたは日本人と関わる中国人の生活をどのように困難にしているか、作り手だけでなく消費者も考えて、もうやめてほしいと常々思う。 1/3
『刀剣乱舞』における戦争犯罪の美化
刀匠である関孫六(孫六兼元)の名が付いた包丁であるとか、現在の商品にまでは私は何も言うつもりはなくて。
ただ、日帝の戦争犯罪とプロパガンダに使われた武器そのものだった日本刀の孫六兼元そのものを、負の歴史を抹消し「人斬りの花形」などと称賛し、キャラクター化して商売すること(そしてファンを増やすこと)が、本当に醜悪かつ危ういと思っている。
日本による侵略戦争の歴史をあまりに軽視している(そしてそれが許される)風潮が日本全体にあり、昨年『ゴールデンカムイ』の展示会が日帝軍服を「本当にカッコいい!」と称賛してたのと同じく、それはオタク向けコンテンツとされる場にも顕著に出ている。
日帝のプロパガンダと戦争犯罪の象徴が再び支持されることも、侵略と戦争の歴史が漂白されていくことも、旧植民地ルーツの者として私は毎回恐ろしくて腹立たしくてたまらなくなる。
すぐに『刀剣乱舞』ファンダムで「百人斬り」も孫六兼元の"逸話"として日中戦争の頃と同じように持て囃されるのでしょう。斬り殺された中国人たちのことなど誰も気にも留めず、「人斬りの花形」キャラの箔をつけるだけの"設定"として。それが分かるからこそ凹まざるを得ないのよ。
『刀剣乱舞』における戦争犯罪の美化
『刀剣乱舞』(過去にシナリオライターがファンダムを大東亜共栄圏と読んだり、スタンプラリーで靖国とコラボしたり、"我が国の歴史を守るための戦い"に琉球刀を参加させたりしている)に、新キャラとして孫六兼元という刀剣が登場した。
日中戦争で中国人を殺戮するための「百人斬り競争」というプロパガンダと戦争犯罪に使われた刀が「人斬りの花形」としてキャラ萌え消費されてるのをリアルタイムで見るのがキツすぎて凹んでいる。
公式からは「人斬り連中に何かと縁があって」 「気に入っているのは、だんだら模様の奴ら (新撰組)」 「旨い酒に旨い飯、 義理人情と多少の面倒事―そういうものに滅法弱い」 と説明され、戦国時代から幕末の"活躍"だけで装飾されており、この刀がほんの86年前(1937)に日帝により("支那人を一人でも多く殺すため"の)プロパガンダに使われ長く脚光浴びていた歴史は隠蔽されている。
さらに、このキャラ(孫六兼元)はゲーム中で戦闘狂の顔を覗かせ「敵を倒せとほっぽり出されたはいいが、あんなものをいくら斬ったところで満たされることはない」(強い奴との戦いしか楽しくないの意)というセリフを発しており、そりゃ中国人の捕虜や農民をいくら斬っても楽しくなったでしょうね……と暗澹たる気持ちに。
うちみたいな業界人でもないペーペーの馬鹿を雇って電車とかバスとか転がさせてくれて現場の人間が現代的なノリで過重労働じゃなきゃ薄給でやってもいいんだけどそんな所は存在しないらしい
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さらに、電車や地下鉄の優先席みたいに優先レーンを設ければと提案しているけれど、都内大規模商業施設の優先エレベーターを見たことが本当にあるのだろうか?週末とか全然使い物にならないレベルだけど?
それを言うなら、電車の優先席も高齢者や足腰の弱そうな人がよろよろ立っていてもほぼほぼ無視してる人も最近はかなり多いけれど、見ていないのだろうか?
さらにいうと、まさにここに書かれているような「優先席じゃなければ別に譲らなくても良心は咎めない」メンタリティで、目の前の高齢者が必死でバランスを取っていようと、松葉杖をついた人が手すりに苦労して掴まっていようと、乳児を抱き抱えて片手に幼児をつれてもう片手で吊り革を握りしめている親がいようと、まったく気にする素ぶりも見せない人たちも多くて、ああいうメンタリティを育てるのが目的なのだろうか?
「工夫と意欲」とかに頼らず、まずはごりごりとハードを増やしていくことにお金を使うべきだったりしないんだろうか?(エレベーターなりエスカレーターなりが多数整備されていればそれだけ「取り合い」の激しさは減るのではないのだろうか)
この記事、一読したところではかなり違和感があるのだけれど、どうなのだろうか。
地下鉄などのエレベーターで車椅子の利用者が後回しにされる、これはハード偏重で考えてきたからで、「時間と金のかかるハードではなく、工夫と意欲でできるソフトで改善できる」としているのだけれど、都内のJRだのメトロだのを使っている側からすると、工夫と意欲で改善するって本気?という気がしてしまう。
地下から地上に上がるエレベーターに辿り着くだけで一苦労だし、自分の望む出口とはまったく逆方向の一番端っ子にしかエレベーターもエスカレーターもない、みたいなこともある。ある意味で電動車椅子ならまだしも移動距離自体は大きな問題にならないという人もいるかもしれないけれども、杖だの歩行補助カートだのを使っている人にとっては、地上の目的地と地下の駅を往復するだけで、階段を使える人間の倍以上の距離を歩かなくてはいけない、みたいなわけのわからない状況になることもある。
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この後どうしようかな スポーツ公園から何らかを眺めても逆光なのよな