私もこの投稿を本日未明に読んだのだけど、とても考えさせられたよね。文章がまともに読めないのは大学生でもそうだけど30代、40代でもそうで、このうち少なく見積もっても3割の人はまともに話しが通じない、新聞に書いてある日本語の文章を正しく正確に読むこと、理解することができないと思っている。
総理大臣や国会議員、国務大臣がまともに漢字が読めず、基本的な日本語の意味すら理解していないということが(自民党の事例しか過分にして存じげないけど)当たり前にあるわけで、世間一般の人がどうなのかは推して知るべしと。
だから日本語が読めないのは大前提として、高校生が各政党の公約を調べようとしているだけでもまだマシな方だなと私なんかは思った。
思うのだけど、言葉って、そもそも「コミュニケーション」のためにある訳だけど、今の若い人…というか、今の日本人はそのコミュニケーションの機会が著しく少なくなっているのではないか。
多くの日本人が「コミュニケーション」ということばを、「TVのバラエティ番組のタレントのように卒なく空気を乱さずに楽しそうに会話すること」と勘違いしていて、自分の思いと相手の思いを様々な障害を乗り越えてやり取りすることは「コミュニケーション」だとは思っていない。むしろそんなことをしようとする奴は「コミュニケーション下手」くらいに思われて忌避される。
バーバル、ノンバーバル、両方の形で上から示される指示(気分を読み取ることも含め)を以下に素早く読み取って従い、空気を乱さずにその場を収めるかに汲々とすることを「コミュニケーション」だと信じている集団では、言語能力も思考力も育つはずがない。そこに「自分」が存在しないのは「コミュニケーション」ではない。
手前味噌になるかも知れないけれど、すべての子どもたちがカウンセリングを受ける(自分の言葉で語り、それに耳を傾ける人の存在を得る)か、
From: @mrmts
https://mstdn.mrmts.com/@mrmts/113393259073178948 [参照]
そこに「自分」がいない「コミュニケーション」なんてクソでしかない。
もちろん役割として、いちいち個としての自分を挿入せずに、言葉の伝達をしなければならない場面は社会生活の中にはたくさんある。
が、それだけのために言葉というものはあるのではない。
あと、少なくとも私がやっているような精神分析的な心理療法では、日常的な会話ではなくてはならないような時候の挨拶とか、社交辞令などの互いへの常識的な配慮の言葉や、世間話のようなものを、敢えて排除する空間を作り、「“あなた”の気持ちの話をして下さい」とやる。
そうすると、日常的にはとても配慮があって、マイルドに、話題豊富に(野球の話や、桜の開花の話や、「政治家は困ったもんです」とか、「最近の気候変動は心配ですな」とか、「うちの娘はどうも勉強をしなくて遊んでばかりで困ります」みたいな話など)「その場を盛り上げたり和ませたりする力」があるような人が、いきなり言葉を失って、パニックに近い状態になることがよくある。
多分、私自身も、敢えて言えばそんなタイプの人間だった。
私はその手の人は「コミュニケーション上手」だと見せかけて他人の間を長年卒なくサバイブしてきただけの人だと思っている。