私もこの投稿を本日未明に読んだのだけど、とても考えさせられたよね。文章がまともに読めないのは大学生でもそうだけど30代、40代でもそうで、このうち少なく見積もっても3割の人はまともに話しが通じない、新聞に書いてある日本語の文章を正しく正確に読むこと、理解することができないと思っている。
総理大臣や国会議員、国務大臣がまともに漢字が読めず、基本的な日本語の意味すら理解していないということが(自民党の事例しか過分にして存じげないけど)当たり前にあるわけで、世間一般の人がどうなのかは推して知るべしと。
だから日本語が読めないのは大前提として、高校生が各政党の公約を調べようとしているだけでもまだマシな方だなと私なんかは思った。
最低でも、今よりもずっと少人数のクラス編成にして、ひとりひとりの子どもの語りに教員が耳を傾けられる(傾けざるを得なくなる)ようにするのが一番手っ取り早い対処法のように私には思われるのだけれど。
自分の言葉で語り考えるコミュニケーションの分からない人が、いくら本を読んでも、言葉の使い方も、物事を考えるということも、分かっていなければ、ただ知識を得て、御託を並べる以外の目的は理解できないだろう。
身近な大切な他者とのパーソナルなやり取りを基礎にした、日常的な「自分との対話」無くして、言語能力など育つはずはない。
カウンセリングをやっていて、いつもぶつかる最大の障害は、「他人に自分の気持ちを語る」ということが分からない(分からないから当然できない)人たちが多すぎるということ。
「“偉い人”の話を“素直に”聞いて、人格改造をしなければならない場所。そうすることで『コミュニケーション上手』になれる」くらいに思ってくる人の如何に多いことか。そこから始めるカウンセリングが如何に困難な作業になることか。“対話”が成り立たないんでよ。
そんな人ばかりの国が、今のような大惨事ななっていることに、私はこれっぽっちも驚かない。
@mrmts
そこに「自分」がいない「コミュニケーション」なんてクソでしかない。
もちろん役割として、いちいち個としての自分を挿入せずに、言葉の伝達をしなければならない場面は社会生活の中にはたくさんある。
が、それだけのために言葉というものはあるのではない。
あと、少なくとも私がやっているような精神分析的な心理療法では、日常的な会話ではなくてはならないような時候の挨拶とか、社交辞令などの互いへの常識的な配慮の言葉や、世間話のようなものを、敢えて排除する空間を作り、「“あなた”の気持ちの話をして下さい」とやる。
そうすると、日常的にはとても配慮があって、マイルドに、話題豊富に(野球の話や、桜の開花の話や、「政治家は困ったもんです」とか、「最近の気候変動は心配ですな」とか、「うちの娘はどうも勉強をしなくて遊んでばかりで困ります」みたいな話など)「その場を盛り上げたり和ませたりする力」があるような人が、いきなり言葉を失って、パニックに近い状態になることがよくある。
多分、私自身も、敢えて言えばそんなタイプの人間だった。
私はその手の人は「コミュニケーション上手」だと見せかけて他人の間を長年卒なくサバイブしてきただけの人だと思っている。