ススキノのアレは、昨日の裁判のニュースをチラッと観ただけだけど、あれ見た限りでは、要は、割とわかりやすく「大人」というか、「親」のいない生育環境だったんだな…と思いましたね。
親(養育者)は、子どもに傅(かしず)いちゃいけないんだよ。親が子どもに傅いて、限界設定しないことほど虐待的な環境は他にないと思いますよ、私は。とても可哀想。
要は、古い精神分析的な言葉で言うところの「父性」の不在の話だと思った。
「父性」ってのは別に男親がやらなくても良い。だから片親でも良いし、施設育ちでもそれ自体は何も問題ない。要はダメなものはダメだと、子どもがぶつかる「壁」になってあげる養育者ですよ。「現実」は思い通りにならないことを教えてくれる大人。
こう言うことを書くと、「すわっ、やはり父権の復活だ!」みたいな勘違いした方向で興奮する向きが少なからずいるけれど、それもうんと見当違い。権威主義とかパターナリズムの話をしているわけではない。暴力も脅しも要らない。
むしろその逆。
必要なのは責任者(養育者)が責任を持って、限界設定することでしかない。
威張り散らす父親とかは、単に子どもよりも幼稚なだけで、しかも気まぐれなので、客観的な第三者的な意味での「父性」とはまったく逆の存在。安心感など何もない。
@zpitschi
その後、ネットのニュースや解説などを読んで、非常に複雑な背景を持っている事件だったんだな、と思いました。
親が子供からのDVを止められなくなっているんですよね。それから、統合失調症や多重人格の診断が下されているのに、その服薬コントロールができていなかった。
父親が地元でも信望のある精神科医だというのに、自分の娘の病気をコントロールできなかった。父親が精神科医でもこうなってしまうのだったら普通の親はどうしたらいいんだろう?と思いました。
精神科医だからとか心理士だからとか、正直、関係ないと思いますよ。笑
どっちかって言えば、病んでる人間ほどそれらの仕事を選んでると思うくらい。
学校の先生やお寺さんのご子息で、病んでる人、多いですしねぇ。
皆、同じ人間だから。
ただ私は昔からいつも思ってるんだけど、美容師さんだって自分の後頭部の髪の毛は自分で切るの難しいじゃないですか。出来る人もいるとは思うけど、多分難しいですよね。
あとは例えばガンの専門の外科の先生だってガンになるし自分のガンの手術は出来ない。
でも他人の手術なら出来る。それなりの専門的な知識を学んで訓練して技術を身に付けているから。それは誰でも出来ることではない。商店街の酒屋のオッサン連れてきて「手術して」と頼んでも無理だけど。あと本人に技術や知識があっても手術室や麻酔薬やメスなどの道具やコメディカルが必要。
ただ同じ専門家でも上手い下手はあるのも同じかな。得意不得意とか。
ついでに付け加えると、(怒られるかもだけど)多くの精神科医って、基本的に仕事の中心は薬の処方じゃないかな。入院治療だって、服薬コントロールは看護師さんの仕事では?心理療法を勉強している先生って案外少ないですよ(すごく勉強されている人もいらっしゃいますが)。
@zpitschi
そうなんですよね。私は専門家ではないので単なる推測ですが、精神を病みやすい人が精神科医になる傾向があるのではないかと思います。
この父親も、娘を自分で診ていたわけではなくて、別の精神科医に通院させていたけれど、娘が行かなくなってしまったそうです。そうなったら、どうすればよかったのかな?そうなってしまってからでは手遅れだったのかな、とか考えました。
親ができるのは、娘をどうするか(も大事だけど、それ以上に)自分がどう言う態度を取るか。この話のように奴隷のようになってしまってはいけない。これでは彼女のおかしさ(症状とは言いたくない)を親がわざわざ助長させている。所謂「イネイブラー」になってしまっています。
そうすれば必ず上手くいくと言う話ではもちろんないけれど、娘をどうするではなく、親(家族)は「自分ができること」をするしかないので。私がいつも繰り返し書いている「境界(バウンダリー)の問題です。娘といえども他人を変えることはできないけれど、自分の行動は意識的に変えられます。
まだまだ日本がとても物質的に豊かだった二、三十年前くらいまで、日本の特に家族療法の分野では、所謂「引きこもり」の青年(男女とも)の親への家庭内暴力の問題が花盛りだった。昔は家庭内暴力(DV)と言えばイコール子から親に向かうものでした。
そう言う意味ではこの話はちょっと懐かしささえ感じる。ただあの頃の家庭内暴力は家の中だけで繰り広げられていて、問題は普通、外には出ませんでしたから、やはりこれはとても新しい話なのでしょう。
私も詳細は見てませんのでわかりませんが。娘の持って生まれたものもあるでしょうけど、明らかに家族のバウンダリーが異常ですよね。
@zpitschi
私は、当時は、斎藤学の著書を読むのが好きだったのを思い出しました。
そうなんですね。
私もあの人に習っていた時期があったので、とても懐かしいです。
あの頃オープンカウンセリングという催しが麻布十番で毎週催されていました。当事者である子どもや親の立場の人が、数十人の聴衆の前で、自分の家族の問題を相談する催しです。
私もそれではないけれど、殆どそっくりの催しに相談者として出て、数十人の聴衆の前で、斎藤学さんに自分や自分の家族のことを相談したことがあります。
あそこが私の、謂わば「トラの穴」でした。何故トラの穴と呼ぶかと言えば、治療者も患者も学生もあそこでは皆が当事者で痛みを抱えた者同士だったからです。
あの頃はあれが「この先の日本でもずっと続くんだろう」と漠然と思っていましたが(金満日本の経済的に豊かな親世代が子世代を抱え込んでしまう病理)、ほんの二、三十年で、もうあんな豊かな親世代はほぼ消え去り、世の中はガラッと様変わりしましたよね。
「親の年金だけが頼りだったいわゆる引きこもりの息子が、親が亡くなった後に、死体を家の中に放置したまま、年金を受け取り続けていた」という事件が立て続けに起きていた時期が何年かありましたよね?私はあの頃が時代の潮目が変わった時期なんじゃないかと思っています。あの頃を境だったんじゃないかなと。
斎藤学さんには、最後まで顔と名前を覚えてもらえませんでしたが。笑
それどころか、彼は自分のところで働いているスタッフも、彼がやってた学校の学生も、患者も(その三者は常に実際に混じり合っていましたが)区別がついてなかったので、私が感謝なのか、スタッフなのか、学生なのかも、最後まで分かってないようでした。
まぁ実際、互いに違いなんてないし、私の同級生には「元患者」という人が何人もいました(依存症のサバイバーとか)。何故かうちの学年は、例えば「不登校時の親」みたいな立場で治療に繋がった人が多くて(さっきのFCタイプ)、なんとなくこじんまりまとまってましたが、上下の学年はさっき書いたIPの側の人が多くて、やることがしっちゃかめっちゃかで派手でした。
今、私がやっている精神分析も(因みに元々は斎藤学さんも精神分析を勉強していた人でした。飛び出してしまったけど)、一応、今も、少なくともタテマエは、やはり患者と治療者は同じだという前提があります。
そして治療者になるには、自分自身が分析を受けなければならないという。フロイトは自分のことを「自己分析」して精神分析を打ち立てましたし。
人間には誰にも精神病部分と非精神病部分があるというのは、ビオンという精神分析家が唱えた理論です。
蛇足ですけど、当時、私は、斎藤学さんってADHD傾向がかなり高いんじゃないかと思っていました。
オープンカウンセリングのような、相談者がいて、その人の話を軸にして話を進めていくような催しでは、彼の話はとても面白いのですが、普通のひとりで喋る講義みたいな形式だと、話はどこまでも脱線しまくり収集が付かなるなるし、予定時間はどこまでもオーバーランし続けて終わりが見えなくなって、ちょっと流石についていけない感じがありました。
オープンカウンセリングはそれに比べて彼の当意即妙な返しと患者さんの反応のストロークが面白く焦点がボケず飽きなかった。一時期私は本当に毎週通い詰めてました。
まぁしかし、そんな彼にも欠点がなかったとは思いません。
何よりやっぱりあの手のカリスマにありがちなことですけど、少し距離をおいた場所から見ると(私が中に入りたくても入れて貰えなかったからですが)取り巻きができて寵愛の奪い合いみたいな、ちょっと異様な光景もありましたし、非常に気まぐれで患者さんを振り回すから不味いことが起きているようにしか見えないこともありましたし、言ってることが適当すぎてどうよ?と思わなくもなかった。どこの世界も中に入るといろいろありますよね。
とは言え、随分学ばせて貰いました。
@minzimt
私が感謝なのか→私が患者なのか