これ、被害者にも言います。
何故かと言うと、相手を変えることに夢中になって、「変わる見込みのない相手」から離れられない人が結構いるからです。いわゆる「共依存」の状態では普通にそのような現象が起きます。
親子なんかでもそう言う現象はありますね。もちろんそれは「怒るな」とか「不満を言うな」と言う意味ではありません。
怒ったり、嫌なことに嫌だと言ったりすること、権利を主張することはとても大切ですが、それで変わらない相手もいるので、その相手を変えようとすることでその関係性がどんどん余計に絡まることがあります。
つまりそのような関係性に陥りやすい人の場合、自他の境界をしっかり確立することがとても大切になります。相手は変えられません(方に訴えるなどの強制力を使って行動を変えさせることは可能でも、人柄や心の内は本人のもので、外からの働きかけではなかなか変えられません。本人が自発的に変わりたいと動機づけを持たない限りは人は変わりません。
「他人の心を変えられない」のは「単なる客観的な事実」であって、そこに被害者、加害者は関係ないし、善悪も関係ありません。理不尽と思われるかも知れないけど。
From: @mzknipo
https://songbird.cloud/@mzknipo/112518874726899273 [参照]
@zpitschi @mzknipo これについては、私も日頃から考えさせられます。卑近な例ですが「歩行者の安全」について言うと、よくドライバーの側から「雨や夜だと歩行者が見えにくいから、反射材や明るい色の服を身に着けろ」と言われます。しかし歩行者から見れば、自分たちは法に則って行動しているだけで、本来気をつけるべきはドライバーです。交通規則にも「状況に応じて安全を確保できる速度で運転するべし」とありますし、ゆっくり走っても歩行者が見えにくいのであればそれはドライバーの問題であり、歩行者が服装や行動を変えるいわれはありません。
しかし、おっしゃるように「他人を変えることが出来ない」のもまた事実です。なので歩行者が自らの意思で(自分を変えて)明るい色の服を着たりライトを携行したりするのは、自衛手段として大切です。
みづかねさんのポイントは、「加害者や第三者が被害者に対して『加害者は変わらないんだからお前が変われ』というのは間違いだ」ではないかと想像します。つまり「被害者自身が自らを守るために変わるのは大事なことだけれど、周囲の社会は加害者を変える、あるいは罰するために働きかけるべきだ」とおっしゃりたいのかなと感じました。深読みしすぎかもしれませんが。😅
私が言うところの「人は変えられないけれど自分のことは変えられる」と言う意味は、例えばそれまで自分が殴られるのは自分が悪いんだと思い込んでいた被害者が「悪いのは自分ではないし、殴られたら怒っていいんだ。あんな人といつまでも一緒にいたくない。逃げよう(別れよう)。これまでの被害についてきちんと裁判で争おう」と考えられるようになるのは、「自分を変えられた」ことになりますよね?
相手は相変わらずのDV野郎で、それは変えられなくても、それまで理不尽な暴力を受け入れていた自分が、それを許さずに権利を主張できるようになることは「相手は変わらないけど、自分は変わった」状態です。そうやって変わることが出来た人は、次はもっと自分を大切にしてくれる人との関係を持つことが出来ます。
@daihard @mzknipo
仰っている反射板の話は、行為に属するので(DVの暴力もそうですね)、法的に規制するなどの強制も可能です。特に「暴力」については身体的なものなら明らかな犯罪ですし、言葉でも今はDV(犯罪)と認められると思います。行為は(言葉も内心ではなく発声などして表に出した時点で行為の一部です)外からさまざまな形で制限をかけられます。そのために運動をしたりして法律を作って貰ったりしますよね。または既にある法律を適用できる場合もあります。
ただ他者を(その内面を)変えることは出来ません。それはやっちゃいけないとか何とかではなく、相手がどんなに悪い人でも、内面を外から変えることは出来ないのです。不可能なんです。
例えば凶悪犯罪を犯した犯人を逮捕して受刑させることは出来ますが、その人を心の底から反省させることは、本人が自発的に変わらない限り無理です。拷問にかけても無理です。被害者やその遺族がどんなに反省して欲しいと望んで必死に働きかけても、変わることはもちろんありますが、それを強制する(変える)ことは出来ないんです。