ちごうどろう→違うだろう
あと、これは説明しても、分かって貰えないかもしれないけれど、敢えて心理機制として説明すれば、自らの中にそのような攻撃性や劣情などを認めない人ほど(そのような場合の心の動きを「自分の中の感情を『分裂排除』している」という風な言葉を使う)、そのようなどさくさの際に、日頃抑え込んでいたそれらの感情を爆発させたりするものなので、寧ろ自分の中にそのような認めたくない気持ちがあることの自覚と受け入れ(それは醜く未熟な自分である事への悲しみとして体験される)が「行動化」のストッパーになる。
社会的な規範や罰則などの外からのタガはものすごく重要だと私は考えているけれど、私がやっている仕事はむしろ上記のような、内面的な変容へのお手伝い。
その際には、まったく逆方向へのアプローチになり、面接の中ではタガを一旦心の中から外して面接時間中の心の中の自由を完全に保証するのが私の仕事になる。だから面接の中ではどんなサディズムも殺人欲求も言語的な表現としては解禁。…というよりは心の中にあるものなら出来る限りの表出の義務を課す。
面接の内と外の使い分けは、心の内と外とそのまま重なる。内面の自由(自由だが、それはその感情の所属を自分のものだと引き受ける苦痛を伴う)と、外的な行動への責任を分ける。