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極限状態というよりは、単に、混乱のどさくさに紛れることで抑制が外れて、普段からあった地金が出し易くなった状態のような気がする。😮‍💨

ってことは、混乱に乗じて理性による抑制を外させないようにすることが大事と言うことか。しかし、日本人が抑制を外すのに、お上によるお墨付き効果ほど効くものはないからなぁ。

それ(抑制の解除を可とするお上によるお墨付き)よりも上にある価値とか戒律みたいなものを日本人は持ってない。飼い主に仕掛けられた猟犬みたいになっちゃうんだよな。

関東大震災の時の虐殺にせよ、戦争中に大陸で日本軍がやった虐殺にせよ、私はただの群集心理に突き動かされて、元々のその人では考えられないことをやったとは思えない。後者はまだ「上官の命令に背けない」のような事情が少なからずあったのは分かるけど、特に前者は、単に群集心理のせいにするのはちごうどろう。

普段は一応、社会性を保って我慢していることを、混乱のどさくさに紛れて「やっていい」状況の中で(むしろ「やった方が良い」くらいの権力からの奨励のようなものを感じて、喜び勇んで高揚感の中で行った…と言う方がきっと多くの日本人にとっての現実なのだ。

今の日本を見ていたら、そう思わざるを得ない。だから、その潜在的な欲望にいかにしてアプローチするか、

もしくは、それはかなり難しいので、とにかく、そのタガが外れて欲望のままに振る舞わないように、どうやってタガをきちんとはめた状態を維持するか、という問題のような気がする。

集団心理という悪者がいきなり天から降って来るわけでは、決してないのだから。

From: @zpitschi
fedibird.com/@zpitschi/1110033 [参照]

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ちごうどろう→違うだろう

あと、これは説明しても、分かって貰えないかもしれないけれど、敢えて心理機制として説明すれば、自らの中にそのような攻撃性や劣情などを認めない人ほど(そのような場合の心の動きを「自分の中の感情を『分裂排除』している」という風な言葉を使う)、そのようなどさくさの際に、日頃抑え込んでいたそれらの感情を爆発させたりするものなので、寧ろ自分の中にそのような認めたくない気持ちがあることの自覚と受け入れ(それは醜く未熟な自分である事への悲しみとして体験される)が「行動化」のストッパーになる。

社会的な規範や罰則などの外からのタガはものすごく重要だと私は考えているけれど、私がやっている仕事はむしろ上記のような、内面的な変容へのお手伝い。

その際には、まったく逆方向へのアプローチになり、面接の中ではタガを一旦心の中から外して面接時間中の心の中の自由を完全に保証するのが私の仕事になる。だから面接の中ではどんなサディズムも殺人欲求も言語的な表現としては解禁。…というよりは心の中にあるものなら出来る限りの表出の義務を課す。

面接の内と外の使い分けは、心の内と外とそのまま重なる。内面の自由(自由だが、それはその感情の所属を自分のものだと引き受ける苦痛を伴う)と、外的な行動への責任を分ける。

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