あと、それはまた双方のフォロワーにも共有されているので、何が起きたのかは皆がそれぞれの視点で知るところとなっていると思うし、2人の間だけではない、割と開かれたコミュニケーションとしても行われたわけなんですよね。
Twitterほどではないにしても、そのような開かれた感じは、私がこのようなSNSを好む所以ですね。“公“がある感じです。風通しが良いというか。リアルな日本社会には(少なくとも私のような狭い世界に住んでいる庶民の周囲には)どちらかと言えば欠けている要素だと思うので。
衆目の下でのコミュニケーションであるということは私には大事な要素です。見る人はそれぞれ自分なりにそれを受け止めて消化していけば良いのだし、そうやって少しずつ集団としての思考が変化していくのを感じている。私も非常に微力ながら、その中の小さな石ころのひとつとして、ほんの小さなものだけど、波紋を作ることができる。互いにちょっとずつ、本人の意図とは必ずしも関係ない方向かも知れないけど、とにかくいろんな影響を与え合っている、このダイナミクスがとても好きなんですよね。Twitterでもそこは同じ…というか、あっちの方がより広い世界を感じていたわけだけど、まぁ同じなんでしょう。
つまりモデルとか、お手本とかなんて、夢にも考えてなくて、私の発信や私と誰かのやり取りにたまたま触れた人が、何らかの、それぞれの考えるための要素、素材にして貰えれば幸いですと言うか、…幸いも何もそうされる運命と言うか。笑
私も他人の発信はそうやって美味しく頂いてますしね。
あと、マストドンの場合は双方のフォロワー以外に、例えばfedibirdなら、“連合“の人の目にも触れてるのかな?私は公開モードだし、確か今の方もそうなっていたし。