小説の作者は、小説の中の「この花」というイメージを、読者と深層意識の中で共有するために表現をするのかもしれないと思うなどした。小説を読んだ個人の認識というわけではなくて、この本、この表現、でしか現出しない「花」がある。それは作者と読んだ人の深いところで繋がっているのかもしれないと。これが井筒の言う普遍的「本質」から個的「本質」への転成ということなのかな。ただ「花」と言葉にすればいいわけではなくて、作者の結晶させた詩的言語でなければ、この共有はなしえないのでは。
などと頭をうんうん唸らせて考えていた。