日記のように書いてみる
・積読だった大塚英志『「暮し」のファシズム』(筑摩選書)を読んでる。大塚さん読んだことあったかなと思ったら『キャラクター小説の作り方』が本棚にあった(20年前だ!)。あれは面白かった。面白かったことだけ覚えてる。たぶん今読んだほうがずっと解るはず。
・さいきん、質も量もサイズも「選書」がちょうどいいなあとあらためて思うけど、どこの本屋も選書コーナーが狭すぎる(か、置いてない)。
・わけあって本に触れる機会が多いのだけど、今までだったら絶対にハードカバーで出ていたような本がソフトカバーで出るようになってる気配。いろいろ思うところがある。
それはさておき。
ほんとはこんなどうでもいいことを日記みたいにゆるゆる言葉に出しておきたいときがあり、でもなんだかとてもやりづらい。正直言うと、HTLが真剣すぎてROMの人になりつつあり、書くハードルがすごくあがってしまった。Twitterでも政治の話してたけど、それだけじゃなかったからバランスとれていたところがあるし、短文寸評形式はなんだかもう気恥ずかしいし、日記だと言い張れば書けるような気がする。でもストックじゃなくてフローで書きたい感じ。くどくどと言い訳。
日記のように書いてみる
・綴方といえば、1)北海道綴方教育連盟事件だけど、三浦綾子の「銃口」は読んでない。面白い? 「ありのままに書く」綴方運動と治安維持法による弾圧、というのがいまいち繋がらなかったけど、今ならちょっとイメージできる気がする。 2)妙蓮寺にある小さな本屋さん「本屋・生活綴方」もちょっと気になってるんだよな。
・このさき、「読む」も「書く」もしない人たちがさらに多数になって、ヒトはどこへゆくのだろうとか年配者らしいこと考えてしまう。BMIとかで意思疎通できる未来があったとしても、だとすればきっとなおさら、思考の言語化は必要だよね。そんなことない? いや、言語化されないどろどろのスープみたいな感情が流れてくるの超絶気持ち悪いな。人類補完計画じゃん。