日記のように書いてみる 

・積読だった大塚英志『「暮し」のファシズム』(筑摩選書)を読んでる。大塚さん読んだことあったかなと思ったら『キャラクター小説の作り方』が本棚にあった(20年前だ!)。あれは面白かった。面白かったことだけ覚えてる。たぶん今読んだほうがずっと解るはず。
・さいきん、質も量もサイズも「選書」がちょうどいいなあとあらためて思うけど、どこの本屋も選書コーナーが狭すぎる(か、置いてない)。
・わけあって本に触れる機会が多いのだけど、今までだったら絶対にハードカバーで出ていたような本がソフトカバーで出るようになってる気配。いろいろ思うところがある。

それはさておき。
ほんとはこんなどうでもいいことを日記みたいにゆるゆる言葉に出しておきたいときがあり、でもなんだかとてもやりづらい。正直言うと、HTLが真剣すぎてROMの人になりつつあり、書くハードルがすごくあがってしまった。Twitterでも政治の話してたけど、それだけじゃなかったからバランスとれていたところがあるし、短文寸評形式はなんだかもう気恥ずかしいし、日記だと言い張れば書けるような気がする。でもストックじゃなくてフローで書きたい感じ。くどくどと言い訳。

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日記のように書いてみる 

『「暮し」のファシズム』第2章で太宰治の「女生徒」と、その元になる有明淑の日記について取り上げていて、当時の「綴方運動」の話がでてくる。

 ”何よりも先ず「自分で物を見、自分で判断し、自分の言葉で心から物を云ふ」ことの尊さが教えられなければ、綴り方を通しての人間教養なぞは望まれないことになってしまふ” (『綴方教室』1937年)

書くことは「個」を鍛えるんだと思う。自分と世界を観察するには、仮留めでもいいからまず自分をどこかにピン留めしなくちゃいけなくて、そしたらいやおうにも地平が見えるし、自分の輪郭をとらなきゃいけなくなる。
1年前、Twitterで「戦争に反対します」と書いたとき、思った以上に心理的ハードルが高くて我ながら驚いたことを思い出した。思うことと書くことは違う。

この半年で直近5年間に書いたテキスト量をゆうに超えるほど書いてるんじゃないかと思うんだけど、読んでくれてレスポンスしてくださる方には感謝しかないです。

日記のように書いてみる 

・綴方といえば、1)北海道綴方教育連盟事件だけど、三浦綾子の「銃口」は読んでない。面白い? 「ありのままに書く」綴方運動と治安維持法による弾圧、というのがいまいち繋がらなかったけど、今ならちょっとイメージできる気がする。 2)妙蓮寺にある小さな本屋さん「本屋・生活綴方」もちょっと気になってるんだよな。

・このさき、「読む」も「書く」もしない人たちがさらに多数になって、ヒトはどこへゆくのだろうとか年配者らしいこと考えてしまう。BMIとかで意思疎通できる未来があったとしても、だとすればきっとなおさら、思考の言語化は必要だよね。そんなことない? いや、言語化されないどろどろのスープみたいな感情が流れてくるの超絶気持ち悪いな。人類補完計画じゃん。

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