「ヒトラーが1924-29年まではN国の立花なみの「ゴロツキ」と見做されていた」には補足が必要です。
ヒトラーは1923年、ミュンヘンでワイマール共和国打倒の暴動に、旧ドイツ国防軍元帥ルーデンドルフ、旧バイエルン首相カールとともに参加。この際の蜂起は失敗、ヒトラーは大逆罪で逮捕。
しかし、刑務所での待遇は極めて良好、ここでヒトラーは『わが闘争 Mein Kamp』を口述筆記、わずか半年で釈放される。
これはドイツの旧支配層が「反ワイマール」・「反共」の立場からヒトラーに意図的に「情状酌量」したため。また20年代の低迷期にも、ナチスには資本家から大量の資金が流れて組織を維持。
この間、ナチスは表向き「反資本主義」、「国民社会主義」を唱え、自営業者や大学生などの支持を確保していく。
この所謂「ナチス左派」の主張は要するに現代日本の「手取りを増やす」派と変わらない。勿論、反ユダヤ主義・外国人排除も忘れてはいない。
資本家・旧支配層はナチスの「反資本主義」が「似非」であることを知っているがこそ、援助を続けた。
有名な33年の授権法も保守党と「中道」の中央党の賛成を得たからこそ、形式的にも「合法的」に成立した。
況や日本の「極右」と同居している「中道保守」など全く頼りにならない。
「訂正」
「我が闘争 Mein Kampf」(正)