さて、星野智幸という作家の「プチ転向宣言」、ある種のクリシェではあるが、なかなかに味わい深い以下のような深い台詞もある。
「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか?」
これは「ある友人」の言葉で、これを聞いた時、星野氏の「頭は真っ白」になったと云ふ。
これはある意味根が深い問題で、日本の文壇では「社会派」とレッテルを貼られると、「作家」としては「純粋性」が低い、と見られる傾向がある。そもそも「純文学」という概念は日本にしかない。
この圧力は大江健三郎レベルの作家でさえかけられていた。「大江の小説はいいが、エッセイは戦後民主主義的でつまらない」と言われ続けたのである。大江がノーベル賞を取った時、加藤周一さんが「彼にとってよかったじゃないの。」とコメントしたのは、そうした文壇内圧力から「解放されるかも」という意味だった。
こうした旧弊を武田泰淳、埴谷雄高、大岡昇平、堀田善衛などの「戦後文学」は打ち破ろうとしたが、1960年代以降、次第に巻き戻され、1990年に入ると柄谷行人が「日本近代文学の終り」を口にするようになった。
いずれにせよ、現在の「文学」がかつての言説とはまるで別者であることは確か。星野氏の件はゾンビ化した文壇ハビトゥスを白日の下に曝したと言えるかも知れない。