さて、加藤尚武は「落ちた偶像丸山眞男」(1986)のなかで、日本社会が戦前のファシズムがある部分連続していることを憂慮し、また別の形で「ファシズム」が来るのでは、と批判する丸山を「狼少年」と呼ぶ。

 蓮実重彦と同じ1937年に生まれ、戦後改革の「恩恵」しかしらない世代が、学校教育・大学教育という最も「守られた場所」から加藤尚武はファシズムへの警戒を呼び掛ける丸山を「狼少年」と罵倒しているのである。

 その後の加藤はと言えば、「眠たい」エッセイと「マルクスからデリダへ」(PHP新書)などただの環境破壊にしかならない行為を続け、遂には「月刊日本」などに登場して今に至る。まさに最悪の「転向」である。

 盟友西部はこの加藤の醜悪な駄文を新聞の論壇時評で「本年最高の学術的評論」と激賞、さらに1983年にサントリー学芸賞を与えられた中沢新一を東大駒場に押し込もうとして事件化する。

 この際「文明としての家社会」の著者、村上泰亮、佐藤誠三郎、公文俊平は西部に加担。関係者の多くは中曽根が設立した日文研に移る。 

 ちなみに死後出版されたインタヴュー(聞き手みすず書房・小尾俊人)で丸山は、「1983年は私に対する凄まじい攻撃の年だった。信頼していた筈の編集者の多くが背を向けて立ち去った」と振り返っている。

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 1983年が丸山眞男への組織的攻撃の年だったとすると、1984年の埴谷ー吉本の間の「コム・デ・ギャルソン」論争も当然、偶然ではない。

 論争の争点は、この時点で「消費社会」段階に突入した日本社会をどう見るか、というもの。

 埴谷は、「消費社会」の現象をあくまで世界資本主義の中の一局面に過ぎず、例え「日本が豊かにになったように見える」としても、それは「第三世界からの搾取」と表裏一体とした。

 それに対し、吉本は「大衆が支持しているのであれば、それを批判するのは、スターリン主義」などという譫言で反論。「アン・アン」にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場することまでした。

 新左翼・吉本ファンから、消費社会の「犬」とも言える「広告屋」に転じ、30年前から表舞台に出てきて悪事をまき散らしている典型が糸井重里である。

 浅田彰は一見吉本と相性が悪いように見えるが、「消費社会」肯定論の点では、実は相通じている。ここからネトウヨ大王東浩紀が飛び出してくるのは、個人的な関係は別にしても、筋が通っているのである。

 こうしてみると、江藤淳、吉本隆明、福田和也、西部邁、当時の柄谷行人、蓮実重彦そして浅田彰、中沢新一とニュアンスの違いはあれ、戦後民主主義、戦後文学を「共通の敵」としていたの歴然としている。

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