1990-2000年の間、浅田彰・柄谷行人編集の『批評空間』という雑誌があった。
人文・思想系の院生のほとんどは、基本この雑誌に引きづられて自己形成をした、と言ってもよい。傍目から、私などはそれを苦々しく見ていた。
ところで、この雑誌に何故か西部邁やあろうことか福田和也が登場することがあったが、これは勿論柄谷と西部の学生時代からの関係に拠る。何か「保守主義」についての戯言の特集だったように記憶している。
柄谷さんは、ブントから出発して文芸批評家としては、元来江藤淳のファンから出発した言ってももいい。
江藤淳は戦後暫くは「左派の振り」をして「作家は行動する」というサルトルの『文学とは何か』の劣化したコピーを発表したりしていたが、潮目を見計らって「戦後文学批判」、とくに埴谷雄高を攻撃するようになった。それに対する埴谷の反論の中に若き日の柄谷行人が江藤の「手下」的に登場する。
それはそれとして慶応仏文科の博士課程に進学できなかった福田和也をSFCの教員に「押し込んだ」のは江藤淳の政治力だとその筋から聞いたことがある。
福田はその頃「1万人の労働者の命より一杯の上等のワインの方が価値がある」などと嘯いて「文学」的な身振りをアピールしていたが、この福田と妙に相性が良かったのが浅田彰である。