19世紀のバルザックと同じく、小ジェントリー(平民)出身の17世紀の思想家J.ロックも、貴族の女性への思慕が向かわれず、一生独身でした。
ロックの場合、ウェストミンスター・カレッジ、オックスフォード進学自体が、パトロンによってはじめて可能になり、その後の人生もパトロン(ホイッグの領袖シャッフツベリ伯)の浮沈に従ってオランダに亡命を強いられるなど、極めて不安定なものとなった。最終的には1688年の名誉革命によってオランダ国王、ウィレム3世とともに英国帰還を果し、名声につつまれて後の生涯を送ったけれども。
ただし、現在のロック研究では、青年期の身分の差による恋愛の挫折は決定的な意味を与えられている。つまり、このことによって、ロックは実存的不安のエネルギーをすべて「哲学」へと振り向けることになる。
WWII後の日本の政治思想史ではホッブス・ロック・ルソーという三題噺が日本国憲法体制を基礎づけるために構築されたが、実際ははるかに複雑である。
政府の暴政に対する「抵抗権」を認めるのはロックのみ、また「寛容」の範囲はロックは、スピノザより遥かに狭い。
またロックは宗教的にもほぼカルヴィニズムであり、18世紀的な理神論ではない。
この点では松下圭一のロック論は実際はスピノザに近いのである。
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