リパッティのショパンを聞きながら、突然G.グールドがM.ポリーニより10歳程も上であることに連想が及び「意外」の感を覚える。
これはホロヴィッツ、リパッティ、リヒテル、ミケランジェリ、そして最後にポリーニといった欧州の教養層を聴衆相手のライブ演奏をメインにしたピアニストと異なり、グールドが「アウラ」の消滅を前提とした「複製芸術」の時代の演奏を自覚化したスタイルであったためだろう。
日本への導入も、おそらくグールドはホロビッツやリヒテルより遅れたのではないか?
加藤周一さんともポリーニやミケランジェリの話は時々したが、グールドの話をした記憶はない。
これはサイードも書いているように、グールドが北米という欧州教養層が存在しない所で活動したこととも関係あるのだろう。
誰でも知っているように、どんなに精密な録音であっても、ライブとは違う。音響学的には、人の「耳」が聞き取れない音の幅がライブでは出ている。
しかし、この「ライブ性」がポジティヴに働くには、演奏者と聴衆の間に暗黙の「信頼・共犯関係」が成立していることが必要。
フルトヴェングラーなどはその典型であって、ベルリンフィルのメンバー、聴衆との間の信頼・共犯関係の上にあの演奏が成り立つ。しかし欧州でもはやその前提は失われた。