今日の東京新聞の書評にまたまた江藤淳本が取り上げられている。
書評の内容が「超テキトーだな」と思ったら、評者与那覇潤だった。これは「テキトー」で当たり前か。
それにしても、どうも最近岩波も含めやたらと江藤淳を「持ち上げる」傾向が見受けられるが、呆れた話である。
与那覇は三島や江藤を「素朴でありたいと願った」作家などと言っているが、こんな「素朴」な話はない。
江藤などは、戦後民主主義へのルサンチマンを内に抱えつつ初期はキャリアを築くために、「戦後文学」に寄り添う「振り」をした。
有名な批評「作家は行動する」はサルトルの『文学とは何か』の完全に劣化したコピーである今なら「剽窃」にあたる。この「劣化」によってサルトルのこの名著は日本語空間では誤読されたままになっている。
60年安保には石原慎太郎、大江健三郎などとともに「反対」の立場に立ったが、その後急速に右傾化、埴谷雄高を攻撃、福田和也などのただの「キッチュ極右」を育てた。
常に社会のマジョリティに寄り添おうとする、その一貫した姿勢は吉本隆明と軌を一にするものがある。
ところで著者は小林秀雄について「戦争を含めてかつての自分を含めてずべてを書く覚悟ができていた」などと与太を飛ばしているらしいが、これは全くのデタラメである。