我妻栄(1897生)は、両大戦間のドイツに留学、そこでR.ヒルファーディングが『金融資本論』で分析した、株式会社を中心にした20世紀における組織資本主義を目の当たりにした。
これはいわば「近代」から「現代」への移行とも言える画期だが、これを法律学の観点から分析したのが、『近代法における債権の優越的地位』である。
またこの問題を扱った我妻の論文にはSPD系マルクス主義の論文が多数引用されている。
戦時中は憲法の宮沢俊義と並んで法学部の中で批判的な立場を代表したとされる(完全にではないが)。
1955年の自民党結成後、改憲のための「内閣憲法調査会」が設立されると、大内兵衛、丸山眞男、『世界』の吉野源三郎を中心に、「憲法研究会」を対抗して立ち上げる。
宮沢の説得に応じて我妻が憲法研究会入りすることで事実上、エスタブリッシュメント次元では「改憲」は「難しい」という空気が広がった。60年安保の際の我妻の岸批判はこうした背景をもっている。
ただし、このことによって我妻栄は田中耕太郎後の最高裁長官の座を棒に振ったとされる。
けだし、我妻にとって「名誉」とするべきである。
ちなみに60年安保の際、茅総長と田中二郎法学部長(行政法)は「アイク歓迎」の立場であり、東大法学部主流はこの流れ。