またこの戯曲を「ミソジニー」の典型例として分析・批判したものを寡聞にして私は知りません。
映画で言えば大島渚がこの世代の「ミソジニー」を体現しています。(もちろん、だから大島の作品がすべてダメ、ということではないですが)
この頃の「若者文化」は昼デモに行って、夜映画館で「ポルノ」を見る、というのが普通だったらしいので、いわばジャンル横断的にそうした感性があったのでしょう。
「フェミニズム」が同世代の男たちの「文化」から離脱することから始まった、というのもわかる気がします。
映画評論家・映画史家の佐藤忠男は、東京・大阪をはじめとした大都市の単身男性(首都圏)の出現によって、松竹・日活なども家族向けの「ホーム・ドラマ」ではない刺激性が強い「性的ドラマ」(例えば大島渚)あるいは、「時代劇」より派手なアクションなどを「低予算」で製作できるようになり、作品の幅が広がったと評価している。
もちろん、そういう面はあったでしょう。またテレビの普及によって、日本の映画業界が崩壊していく中、日活ロマン・ポルノによって映画製作の技術が次世代に伝達されていったと四方田犬彦などは評価している。
とは云え、その結果が例の「全裸監督 村西とおる伝」だとすると、これはただ評価するだけでよいでしょうか?