孔子のバイタリティについて
『論語』の一節、「不惑」、「知命」は自分の人生においてもピンとくる。
ただ、60にして「耳順」というのは自分ながら心許ない。
しかし、現在到底想像できないのは、「七十而従二心所一レ欲、不レ踰レ矩」である。
これ「七十にして己の欲するところに従いて矩をこえず」と読むと、孔子は70歳にして、やっと自分の欲望(ないし要求)が世間での水準に接近した」ということになる。
これ、どれだけバイタリティーある人なのよ。私など50を過ぎてから身体にあちこちがたが来て、そもそも70歳で「生きていく」ための「欲望」があるのかどうか、どうも自信がない。
さすが春秋時代の中国で世に入れられず、亡命すると、時には強盗に襲われながらも数百人の弟子を率いて放浪しただけはある。
あるいは自分の中の「野獣的」なものを切実に感じていたからこそ、「礼」による「文明化」が「ヒト」には不可欠と説いたのかもしれない。
『論語』は実は中学生の時からの愛読書である。「倫理」として「己の欲せざるところ」は「他人にもするな」というある意味「否定的普遍性」の格率、カントの「汝の選択が普遍的に適用されるものととして」倫理との比較は、おもしろいテーマではないか、と思っている。