どうも「ネット・スラング」らしいが、偏差値の低い大学を「Fラン」などと失敬なレッテリ貼りをする慣習があるようだ。
これは「侮蔑」しているつもりの発話の主体をも徐々に負の感情へと巻き込んでいく、あまりよくない語法のように感じられる。
そもそもがたかだが18歳かそこらの人間同士に根本的な違いもある筈もない。
確かに「本人は努力した」、それはその通りだろう。
しかし「努力」が報われる、という初期設定は自分ではできない。
いわば、スタートラインには親に立たせてもらう。あと中距離走り抜けるには親の経済・文化資本が相関することは証明されている。
であるから、「中高校生の時に努力に専念できる」という環境自体が幸運なのだ。これを哲学用語では「偶有性」(たまたま)という。
というわけだから、東大教授が「Fラン大学の講義にしては」などと書くのは望ましくない。世間の偏見にお墨付き与えることになりかねないからだ。