上岡龍太郎の父、1908年生れだから、1910年生れの久野収(滝川事件の学生側中心、院生は中井正一)とは、おそらく戦前から「顔見知り」ではあっただろう。
貧困のため婿養子(相手は宮崎県の生糸問屋の一人娘)となり、司法試験の勉強をした弁護士になった。であるので、本人は「小林為太郎」。
最初の弁護士登録は後の京都市長、高山義三も事務所。まさに神戸出身の内田義彦の言う、近代日本の「知識青年」ネットワークそのままだなー。
高山義三もキリスト教社会主義、賀川豊彦の影響、普選運動に参加。神戸で開業した弁護士としては大本事件(大本教への思想弾圧事件)などを担当。戦後は地域政党として京都民主党の結成に参加、1950年社会党公認の社共統一候補として京都市長に当選。
しかし、この後京都はレッド・パージ、所感派と国際派の闘争に突入するわけだから、まさに「乱世」。この際、大島渚などは学生運動のリーダーとして、無責任極まる行動を指揮していたようだ。
しかしスパルタクス君、20年間の京都在住中、何を学んでいたのか?京都の「おじさん」達に高い料亭で酒をつぐのはうまくなったと自慢していたけれども。
最もガラパゴス(浅田の手下)の連中より優秀ではあったけど。とは言え最近20年前より「後退」していないか?