なにやら、上岡龍太郎の死を、「関西芸人」の最後の良心として悼む声があるようだ。

勿論、上岡龍太郎個人は、「まとも」な人だった。

しかし、私個人は龍太郎本人より彼の「父」に関心がある。

高知県出身、新聞配達など苦学しながら高知高等学校に入学。キリスト教からマルクス主義へ、という当時の「知識青年」(内田義彦)の典型的なコースを辿る。プロレタリア文学誌『戦旗』購読の廉で検挙。京都大学法学部進学後は、滝川事件に参加。

1946年自由法曹団、47年共産党から衆院選に立候補、落選。

その後は、1930年代後半に『世界文化』・『土曜日』などで、中井正一、久野収、新村猛等と人民戦線運動に参加した能勢克男と共に、労働者、農民、在日朝鮮人などの人権弾圧事件を引き受ける中心人物となる。

また中井正一の高校の後輩、佐々木基一を通して、『世界文化』は平野謙や荒正人等戦後『近代文学』に結集するグループとも繋がり、また丸山眞男も『世界文化』は愛読していた。

こうした「戦中」派の遺産の上に乗った、新左翼ラディカリズムが最終的に解体されたのが、バブルとともにあった1980年代ポストモダニズム。浅田とスパルタクス君が共に京大人文研であることは決して偶然ではないでしょう。ついでに熊谷更迭を喜んでいるガラパゴスOBもね。

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 上岡龍太郎の父、1908年生れだから、1910年生れの久野収(滝川事件の学生側中心、院生は中井正一)とは、おそらく戦前から「顔見知り」ではあっただろう。

 貧困のため婿養子(相手は宮崎県の生糸問屋の一人娘)となり、司法試験の勉強をした弁護士になった。であるので、本人は「小林為太郎」。

 最初の弁護士登録は後の京都市長、高山義三も事務所。まさに神戸出身の内田義彦の言う、近代日本の「知識青年」ネットワークそのままだなー。

 高山義三もキリスト教社会主義、賀川豊彦の影響、普選運動に参加。神戸で開業した弁護士としては大本事件(大本教への思想弾圧事件)などを担当。戦後は地域政党として京都民主党の結成に参加、1950年社会党公認の社共統一候補として京都市長に当選。

 しかし、この後京都はレッド・パージ、所感派と国際派の闘争に突入するわけだから、まさに「乱世」。この際、大島渚などは学生運動のリーダーとして、無責任極まる行動を指揮していたようだ。

 しかしスパルタクス君、20年間の京都在住中、何を学んでいたのか?京都の「おじさん」達に高い料亭で酒をつぐのはうまくなったと自慢していたけれども。

 最もガラパゴス(浅田の手下)の連中より優秀ではあったけど。とは言え最近20年前より「後退」していないか?

 

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