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 東芝と日本資本主義史(中)

 石坂は1948年東芝の労働争議を「レッド・パージ」によって乗り切りましたが、土光敏夫は1950年IHIで同様の「合理化」を指揮。1965年に東芝社長の立場で「リストラ」断行。

 土光は「ミスター合理化」などと「日経」的言説からはスター扱いされますが、要するに労働組合潰し、「解雇屋」です。

 また土光は1972年に第四代経団連会長に就任、2期6年「財界総理」として君臨します。
 
 そして1981年第二臨調会長となり、行政改革、地方自治解体、そして三公社(郵便・国鉄・電電公社)の民営化の方針を提言、中曽根と組んでこれを実現。

 つまり、戦後一貫して「政治的」立場から労組潰しを行ってきた財界第一人者。連合は電電公社の山岸章が、この流れに平仄を合わせ成立した(総評は解体)。

 今年の賃上げも連合内民間大企業は軍需産業ほどではないにしても、31年ぶりの大幅賃上げ。

 ですから、同じ「労働者」といっても、「大企業枠正規」内と「外」では全く利害は一致しない。
 
 しかし、日本国内では権力を恣にしたと言える東芝の石坂・土光でさえ、米国には屈従するしかなかった。

 その意味では石坂の第一生命市長室の椅子に敗戦後マッカーサーが座っていた、というエピソードは象徴的です。
 

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