『陽の末裔』

 私が読んだのは、単行本になってからだが、連載は1985年から。

 「陽の末裔」とは平塚雷鳥の「原始女性は太陽であった」から来ている。

 東北北部から紡績工場に出された二人の少女の人生を軸にした大河ドラマでもある。

 一人はジャーナリストとして労働運動、女性解放運動に取り組んでいく。その中で社会主義運動の中にもある「女性差別」にも気づいていく。

 とは言え、幸徳秋水の子である男(創作)と別れて、元特高刑事と結ばれるのは、プロットとして無理があると思うが。尚、前夫は別にDV夫ではない。

 今一人は、子爵夫人として社交界の中心となり、実業にも乗り出す。

 しかし、両者とも30年代の軍国主義には批判的。

 家族内部の葛藤に関しては竹宮恵子、山岸涼子の方が詳細・リアルだが、大正・昭和の女性視点の大河ドラマとしては一読に値するのではないだろうか。

 いずれにせよ、タイトル「陽の末裔」はうまい。

重要な訂正

「元始女性は太陽であった」です。

しかし、巻末の参考文献を見ると、この頃はまだしっかりとした歴史関係の本が一般に流通していたのだな、と改めて思う。

しかし、雷鳥もそうだが、高群逸枝のパワーは凄い。女性史という分野はほぼ彼女の独力でまずは開拓されたと言ってよい。勿論、歴史学の常として後世、修正されていく部分も多いのだけれども。

山川菊枝、この人も政治・社会問題に関しても、ほぼ「間違わない」偉い人だった。

山川菊枝、夫の山川均(労農派指導者)とともに社会党左派に属す。片山内閣の下、労働省初代婦人局長も務めた。

上野千鶴子さんは昔、これらの人々を「近代主義」的な一派「フェミニズム」と分類、自分たちの脱近代的なフェミニズムと差異化した。これについてもゼミで、ー険悪でなくー論争したことを記憶している。

しかし、戦後改革における憲法上、民法上、刑法上の「平等」を「近代主義」と片づけるのは暴論だと今でも思っている。

それに山川菊枝たちは当然「ジェンダー規範」のことを問題にしていた。

このあたり、「全共闘」世代(上野さんは京大全共闘)と同様な連略、「歴史修正主義」を感じる。

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「訂正の訂正」

一波フェミニズム(正)

同様な言説戦略(正)

憲法における「両性の平等」の明記、これは世界的にも画期的だった。当時の米国憲法にもない。

また民法上、「家制度」の下、「禁治産者」として扱われ、また刑法上「姦通」罪が女性にだけ適法されるなどの「べらぼう」な制度が廃止されたことが、何故「重要でない」と言えるのか?

私が博士課程の時、上野さんの直弟子がフーコーと酒井直樹をごっちゃにして、「家制度」も「言説」に過ぎない、とする博士論文構想を発表。あの穏やかな見田宗介先生も「うーん、さすがにそれは。「言説」の定義を変えるか、別の方法を使ったほうがいいと思うんだよね・・・」とコメントしていた。

この「言説と現実の区別はない」という哲学的には陳腐極まる主張、一時は米国・日本を風靡していたが、最近ようやく下火になった。

「すべては言説だ」は主張としては「すべては現実だ」と等価。

つまり「すべてを説明する記述概念」は「何も説明できない記述概念」。

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