右傾化する英国エリート
つまり、これらの人々、英本国で主流になるには「左」過ぎたのです。
彼らの仕事もB.アンダーソンやカルチュラル・スタディーズのようにある時期からの米国の大学での方が受け入れられるようになります。
実際、英本国のアカデミズムでは保守派の歴史家がホブズボームのキャリアを阻んだエピソードを象徴されるように、この世代の歴史家グループの仕事も周辺的なものとされ、続いて攻撃を受けます。
例えば、17世紀のイングランド、日本の世界史の教科書では「ピューリタン革命」と教えます。
しかし、英本国では、あれは「革命」ではなく「内戦 civil war」とされます。
ホブズボーム、ヒルの時代にマルクス主義的な視点から、「革命」として再定位する「歴史学」が誕生したのです。
その後保守派からの巻き返しがあり、現在ではほぼ「革命」史観は否定されました。
とは言え、公平に見て「国王」が処刑され、一時的にせよイングランドが「共和国」になった出来事を「革命」と呼ばずにどう呼ぶのか?
英国のアカデミズムの保守化は驚くべきもので、現在ではナチスに対する「宥和政策」もは合理的な選択、とするのが通説。
これはまさに英国流「歴史修正主義」。
「歴史」が「政治」でもあることを示唆しています。
英国アカデミズムの保守化
O.ジョーンズを排除する英国アカデミズムの保守化、ここにもかつての大国の自閉化が見受けられます。
さて、ここで英国的「修正主義」、とりわけ17世紀史について補足します。
17世紀は「17世紀危機」が論争になるほど、16世紀・18世紀と比べて全欧州的に動乱の時期でした。
特に、ドイツ、ネーデルランド、イングランドではそうです。
ドイツではいわゆる「30年戦争」の時期に当たり、オランダでは、ウィット兄弟の共和国とその転覆、そしてスピノザの時代です。
イングランドでは、「ピューリタン革命」によって国王チャールズ1世は処刑され(最高裁である議会で議決)、O.クロムウェルによる「共和国」となります。
しかし、C.ヒル、H.ホブズボームの世代の「前」と「後」ではこの事件を「内乱 civil war」と呼びます。
このことで、マグナ・カルタまで遡り、名誉革命によって完成される「英国立憲主義」の連続性が前景化されるのです。
近年は、環境史との関連で、「17世紀危機」を地球的気候変動と関連付ける議論も有力です。
しかし、17世紀、東アジアでは人口動態でも政治秩序でも相対的安定期。日本に至っては人口2千万から3千万に増加。
さっぱり「グローバル」な説得力がありません。