右傾化する英国エリート
つまり、これらの人々、英本国で主流になるには「左」過ぎたのです。
彼らの仕事もB.アンダーソンやカルチュラル・スタディーズのようにある時期からの米国の大学での方が受け入れられるようになります。
実際、英本国のアカデミズムでは保守派の歴史家がホブズボームのキャリアを阻んだエピソードを象徴されるように、この世代の歴史家グループの仕事も周辺的なものとされ、続いて攻撃を受けます。
例えば、17世紀のイングランド、日本の世界史の教科書では「ピューリタン革命」と教えます。
しかし、英本国では、あれは「革命」ではなく「内戦 civil war」とされます。
ホブズボーム、ヒルの時代にマルクス主義的な視点から、「革命」として再定位する「歴史学」が誕生したのです。
その後保守派からの巻き返しがあり、現在ではほぼ「革命」史観は否定されました。
とは言え、公平に見て「国王」が処刑され、一時的にせよイングランドが「共和国」になった出来事を「革命」と呼ばずにどう呼ぶのか?
英国のアカデミズムの保守化は驚くべきもので、現在ではナチスに対する「宥和政策」もは合理的な選択、とするのが通説。
これはまさに英国流「歴史修正主義」。
「歴史」が「政治」でもあることを示唆しています。
「 チャブ Chaves」ー英国の学歴エリート右傾化の「徴候」
先日「右傾化する英国エリート」について投稿しました。
「チャブ Chavs」という言葉は、現代英国の学歴エリートの右傾化の「徴候」とも言える言葉です。
「チャブ」とは、下層階級や労働者階級の「低学歴層」への侮蔑用語。また「公営住宅」在住、暴力的、麻薬依存などのコノテーションを伴います。
さて、問題は、元来労働者階級であった筈の「労働党 Labor Party」の中堅以上の幹部が、ほぼこの感覚を共有していること。
この労働党幹部の右傾化は、「第三の道」を唱えながらも、実質サッチャーの新自由主義を継承し、外交的にもブッシュのイラク侵略戦争に積極的に加担したT.ブレアから決定的なものとなります。
数少ない「正統派」社会主義者、J.コービンは、左傾化する若者が大挙して入党することで党首に選ばれましたが、党組織からは有形無形の嫌がらせ、サボタージュを受け、ついに辞任に追い込まれました。
「チャブ Chaves」によってこの傾向を告発したO.ジョーンズ(1984生、オックスフォードで歴史学専攻)はパブで極右に襲撃されています。
O.ジョーンズ、父はウェールズ出身の労働組合活動家、かつてであれば歴史家の道を歩んだでしょう。
英国アカデミズムの保守化
O.ジョーンズを排除する英国アカデミズムの保守化、ここにもかつての大国の自閉化が見受けられます。
さて、ここで英国的「修正主義」、とりわけ17世紀史について補足します。
17世紀は「17世紀危機」が論争になるほど、16世紀・18世紀と比べて全欧州的に動乱の時期でした。
特に、ドイツ、ネーデルランド、イングランドではそうです。
ドイツではいわゆる「30年戦争」の時期に当たり、オランダでは、ウィット兄弟の共和国とその転覆、そしてスピノザの時代です。
イングランドでは、「ピューリタン革命」によって国王チャールズ1世は処刑され(最高裁である議会で議決)、O.クロムウェルによる「共和国」となります。
しかし、C.ヒル、H.ホブズボームの世代の「前」と「後」ではこの事件を「内乱 civil war」と呼びます。
このことで、マグナ・カルタまで遡り、名誉革命によって完成される「英国立憲主義」の連続性が前景化されるのです。
近年は、環境史との関連で、「17世紀危機」を地球的気候変動と関連付ける議論も有力です。
しかし、17世紀、東アジアでは人口動態でも政治秩序でも相対的安定期。日本に至っては人口2千万から3千万に増加。
さっぱり「グローバル」な説得力がありません。
日本の世界史教科書で17世紀イングランド(まだスコットランドは別の国)を「市民革命の時代」としてあるのは、Cヒルやホブズボームの影響を受けた歴史家の世代の痕跡です。
現在の17世紀ブリテン研究、「複合国家論」などと言っておりますが、これ「当たり前」。何の知的革新もありません。
尚、英国エリートの保守化、日本と同じく学歴エリートに著しい。
やはり急速に没落して行く国家同士の類似性があるやもしれません。