西部邁と「まともな保守」

昨日、首相秘書官の性的マイノリティへの差別発言に関連して、本筋ではないものの、西部邁に言及しました。

西部邁、「反米保守」という点で、一水会や中島岳志などの「まともな保守」を論壇へプロデュースする大きな役割を果した、と言えます。

同時に自称「まともな保守」であるからには、当然家族規範・性規範に関しても「まともな保守」。

 
私は、数回に渡り、この「まともな保守」のメディアへの「異常」とも言える露出について批判してきました。

さて、問題は、「週刊金曜日」などの「市民派」系メディアも、この「まともな保守」言説に長らく依存傾向にあること。まあ、中島岳志が編集委員であるのだから、当然ですけれども。

生活クラブ生協の「本の花束」などでも、ほとんど毎回のように中島岳志と天皇崇拝者・吉本ファン(隆明の方)内田樹が登場するのは、ほんとにうんざりした。

さらなる問題は『批評空間』が西部、そして詐欺師の福田和也を頻繁に登場させたこと。

福田和也、「百人の労働者の命より一杯の極上のワインの方が価値がある」と言って見せる「愚か者」。

彼に「文化資本」を与えた点だけでも浅田彰、十分に批判に値します。まさに「ポストモダニズム」と詐欺「極右」の癒着とはこのこと。

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ちなみに、「週刊金曜日」に代表されるスタンス、戦術的に見ても明らかに「誤り」。

これは「右にウィングを広げている」のではなく、「右にウィングを広げられている」のです。

まあ、主観的には「左右」の対立を超えているのかも、ですか、世界的に「左右」の対立を超える、と主張する人は基本的に「右」に包摂されている、これはほぼ間違いない。

「左右の対立は脱構築不可能」ーJ.デリダ

「左右」の対立言説の構造については、冷戦終結後にJ.デリダは、

「左右の対立は脱構築不可能」とし、

「今ほど民主主義的左翼の理念」が要請されている時はない、

とした。

デリダが「民主主義的左翼」としてアルチュセール的マルクス主義とも対立し、むしろ「隠れサルトル派」であったことは「政治と友愛と」からもわかる。

このインタヴューをした英語圏の人もちょっと驚いた様子。

ですので、ドーバー海峡、狭いようで「知的には」遠いのです。

大西洋はさらに「遠い」

ちなみに米国では伝統的な大学の批評、とくに「ニュークリティシズム」にデリダ的テクスト分析が適合的な面があり、その意味でデリダの政治的立ち位置とは無関係に接続、流行した面があった。

ド・マン事件などは、そのことを象徴するとも言える。

ポール・ド・マンは米国の大学の批評界でヒリス・ミラーなどと並ぶ大物で、デリダの導入に大きな役割を果した。

ところが、ド・マンはWWII中、ベルギーでナチスに協力したパンフレットなどを書いていた。

これがド・マンの死後明るみになり、米国の大学では大騒動になる。

デリダは、このことをド・マンの生前知らされておらず、事件の対応に大わらわとなる。

米国におけるデリダ派

このド・マン騒動、なんとかデリダは迅速に対処・危機管理して、なんとか乗り切ったけれども、やはり米国の大学におけるデリダ派には大打撃となった。

一般に米国の大学における「現代思想」、ー近年「French Theory」と言われるーデリダ派、フーコー派、アルチュセール派などの間での確執も結構ある。

私も学生時代、米国のアルチュセール派の学生がデリダ派のことを非常に「苦々しく」語っていたことが印象的だったので、よく覚えている。

ただ、英語圏のアルチュセール派、やはり大陸における共産党の立ち位置が「ピンとこない」(英語圏では共産党は、政治的パワーとしてはないに等しい)ので、やはり議論のポイントがずれている印象がある。

この点、ある時期(1960年)までは共産党が知識人の空間では大きな意味をもった日本での方が、「理解」のポイントが外れ切ってはいない。(つまり「新左翼」がアルチュセールに向かった)。

ただ、あくまでアルチュセールが「共産党改革派」(最後まで党員)であったこと、また彼が論じたことが、戦後日本の歴史学及び社会科学の世界では、ほぼ全て議論されていたことは「理解」されなかった(これは日本の社会科学が基本ドイツ語圏の影響下にあったことと関係する)。

ポール・ド・マンに関する補足

ド・マンはWWII後、米国に渡ってキャリアを積み、当然ながら戦中の「反ユダヤ主義」者としての「過去」は隠してました。

ですから、自身、アルジェリアのユダヤ人(セファラード)であり、WWII中「ユダヤ人」である、ということで、学校から放校された(これはデリダにとって深いトラウマになる)デリダは、ド・マンの過去については知りませんでした。

ド・マンは、当時のベルギーの労働運動活動家・政治家のアンリ・ド・マンがナチス協力者であった関係から、20代前半(1919生)でありながら、反ユダヤ主義的文章を発表する機会を「摑んでしまった」ということ。

ちなみにアンリ・ド・マンのように、「コーポラティズム」的ファシズムへの支持者は両大戦間の大陸欧州にはかなり存在しました。

ムッソリーニは、その典型。彼は元来イタリア社会党機関紙「アヴァンティ 前進」の編集長にして党首。

WWIにあたってナショナリズムの立場から戦争介入を強く主張、社会党から除名。

戦後、「ファッシ(絆)」党を設立、共産党主導の革命を恐れた英国の支援を受けて、1922年「ローマ進軍」によって政権を掌握。

ですので、現在の日本でも「絆」と言っておけば安心というわけには参りません。

アンリ・ド・マンと両大戦間の欧州極右

アンリ・ド・マンはポール・ド・マンの叔父です。

尚、ここで書いたように、ベルギーのみならず大陸欧州で両大戦間にコーポラティズム的ファシズムへの支持が一定あったことは、ナチスの唱える「ヨーロッパ新秩序」が全くの妄想でもなかったことを意味します。

欧州の大学生も英国と異なり、むしろ極右多数でした。

ハイデガーに熱狂したドイツ人男性学生はその典型です。

後の仏社会党大統領ミッテランも若き日「火の十字団」という極右団体に所属し、ヴイシーの指導者ペタンの墓には、長く命日に花束を捧げていました。

ですから、サルトル、メルロ=ポンティ、そしてニザンなどはむしろ「例外」なのです。

そうした訳で、フランスでも東部戦線(ソ連)でドイツ国防軍が敗勢濃色になるまで、ヴィシーが「フランス」であり、国民の支持も一定程度受けていました。

ド・ゴールの「自由フランス」が「フランス政府」と認められたのは土壇場になってから、です。

このような事情ですから、日本でも欧州でも「ファシズム」が絶対的な「負」の記号となったのはWWII以後。

両大戦間は「ファシズム」はネガティヴな概念ではありませんでした。

まあ、例のシン共産党宣言ってのもそんな感がありますね。

「週刊金曜日」が発刊されようとしていた時には講談社の写真週刊誌『FRIDAY フライデー』が猛威を奮っていて、それに乗っかる・混同される・させるつもりなのかと、準備中のスタッフに伝えたけど、まともに相手にされなかった。何ていうか、主義主張の前に、常識や感性面で信用ならない人たちと思った。
無事発刊された「週刊金曜日」を読んでもその思いは変わらなかったし、今もそうなのね。よくこれまで続いて来れたな、続いたこと・支持者がまだいることは日本社会にとって不幸でしかない。

すいません、変なとこに反応しちゃって。

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