津田左右吉「事件」
当時、文学部では平泉澄が「国体明徴講座」を講じるとともに、軍部上層部と強力なネットワークを構築していました。
南原繁は、これに対抗して法学部に「東洋政治思想史講座」を設立、その担当として「唯物論研究会」の講演会に出席した折、治安維持法違反で逮捕・勾留、以後特高の監視下にあった丸山眞男をあえて抜擢します。
しかし、当時の制度では助手は講義1年目は講義ができなかったので、非常勤として南原が「三顧の礼」を尽くして来てもらったのが津田左右吉です。
津田は記紀に関する実証的な資料批判を通じて、神武天皇は実在しないこと、神功皇后の記述も含めて、応神天皇までの記紀としての記述は「歴史」とは見做せないことを明らかにし、このことは研究者には「常識」になっていました。
しかし、当然『原理日本』はそのような「学界の常識」などは問題としません。
そして津田の開講1回目に学内外の右翼が押しかけ、深夜に至るまで、津田を守る丸山とともに「つるし上げる」事件が起こり、これが津田の全著書の発禁へと繋がっていったのです。
この際、津田が長年勤めた早大は、これまたあっさりと津田を解雇しました。
こうして「学問の自由」は圧殺されたのです。
現在の状況とは無縁と言えないでしょう。