「天皇機関説」事件の衝撃
何といっても、天皇機関説は当時の通説であり、官僚たちもそれを前提として育成されていたにも関わらず、一人として美濃部を擁護するものはいなかったのです。
結局の岡田内閣は「国体明徴声明」を出し、美濃部の著作は発禁処分となります。
ちなみに美濃部の後任の宮沢俊義は、開講1年目にH.ケルゼンの一般国家学(純粋法学)の影響も受けながら、明治憲法の「天皇は神聖にして犯すべからず」の条項を「単に天皇の刑事無答責を定めたものに過ぎない」、と颯爽と始めたのですが、この事件以後、憲法講義で「天皇の項目は省略」と言わざるを得なくなりました。
それでも、宮沢は当時の学部長に呼ばれて、「もし火の粉が法学部全体に及んだ時には辞職してもらいたい」と言い渡されていました。
(このエピソードは戦後宮沢が退官する時の教授会挨拶ではじめて明かされます)。
実際、当時の東大法学部には横田・宮沢の他にも、田中耕太郎(商法・民法)、末広厳太郎(民法・法社会学)など、『原理日本』から、何度も「撲滅対象」に名指しされた人たちがおり、大学や授業に右翼が押し掛けるということもしばしば起こっていたのです。
(勿論、学生内部にも右翼シンパもいましたが、当時の学生内では少数でした)