『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観ました。母校がロケ地になってるんだ、という理由で気になってた作品ですが、「何でかわからないけど皆と“合わない”」「何でかわからないけど“普通”になれない」そんな“生きづらさ”をずっと抱えてきた人たちが、自分のありのままの気持ちをカミングアウトしても「流してしまえばいい」「笑って済ませばいい」となる社会に対して、「私たちは“傷付いている”」と社会に承認されない“ほんとうの自分”の存在を叫ぶ、傑作でした。
私は「やさしさ」とは結局自己と他者の間でしか生まれないものと思っており、他者とは根本的に「わかり合えない」ものである以上、「やさしさ」には同時に他者を傷つける「痛み」も伴っているとも思ってますが、だけど「やさしい」人たちが生きづらい世の中であってほしくない。だからこそ「相手と逃げずに対話をしよう」「相手を傷付け、傷付けられることを怖がらずに、本心で話し合おう」というラストのメッセージ、その為の「他者との対話」には自己の基盤を強固する意味で「自己との対話」がベースにある以上、他人の言葉や考えに流されずに先ずは一旦自分で考えること、「“ぬいぐるみ”との対話」を通して自己と向き合うことの肯定がなされた今作に出会えて嬉しかったです。
己を社会の中に馴染ませる為にほんとうの“生きづらい”自分を殺すことにどうしても耐えられなかった、こんな"自分"でも「そのままでいいよ」と肯定してくれる存在を求めて、社会から見たら痛々しくても、鬱のように見えても、誰も傷付かない“やさしい世界”を求めて、“己の気持ち”と対話してくれる存在である「ぬいぐるみ」にしゃべりかけるが、その行為も結局は「自己の内なる対話」であり、“やさしい世界”に閉じこもってしまうかもしれない。本当は他者との対話を求めてるのに、劇中であったように「(対話をするのは)疲れる」「別に君を傷付けたくない」と、社会の主流から省かれたものは自分の本心を隠すことでしか生き抜くことが出来ない。それを出来ない“弱い”人間たちが自分の存在を「そんな人が居てもいいじゃない」と肯定することが「閉じられたやさしい世界」というぬいぐるみサークルの存在意義であり、そこから「ぬいぐるみ対自分」というやさしい世界だけでなく、「他者対自分」というやさしい世界を築いていこう、という「未来」を見据えた映画でもあり、これまで“生きづらさ”を「エモーショナルな“欠陥”」として雰囲気で消費するようなフィクション作品が巷で溢れる昨今において、その人たちの感情の機敏をしっかりと描写していた作品だと思った。