なんとなく気持ちがつかれたのでカウリスマキの『愛しのタチアナ』見てた。同じことやってるようでもやっぱり『枯れ葉』は現代性が加味されてるのわかるねー。同時に気持ちがいいほど人間に大事なことはいつでも同じこと、なのだなと。ここは何もないのでピカピカの車でロックンロールをききながらどっかいきたいのです、だけの話。
60分そこらなので中編なんだけど、適当な120分映画を見るより彼らと一緒にたらんたらんと長い時間を過ごしている感覚がある。凝縮が引き伸ばし効果になることがよくわかるかんじ。何を喋っていいのかわからない男ふたりがショーウィンドウ前でスパナとミシンの話してるのよいよなあ、あそこで話すのはロックとか喧嘩の武勇伝じゃないんだよな……ぶっきらぼうでかわいいところのある男たちに悪い気がしない女たち、ってのは都合良いようでそうでもないような?
90年代の気分だったかっこわるさがクール、ではなくてただただかっっこわるいものをそのまんまに愛して大事にしている。登場人物に愛の告白など当然ないまま寄り添う肩(意地でも正面対置しない顔と顔)があるといいもんだろうねえ、というほわほわした夢想が形になった何か。多少は時代を踏まえて目をつむる必要性もありつつ、くーっ、せつねえなー!の後味も悪くなかったです。
それにしてもカウリスマキの映画は愛煙家の私からしても煙たい、狭い家でも車の中でもコーヒーショップでももちろん外でもみんながずーっとモクモクしててケホケホしそうになる、でもってあのタバコたぶん全然おいしくないやつなのよ、わかるの。でも60年代の労働者階級の話やるにはやっぱりあの苦い煙の感じがなくてはねと思うのよね。喋ることがへたくそだからどうしようもない人たちの話だから隙間をうめるようにモクモクしてるというあのかんじが大変に重要なのである 登場人物たちだって空白が気になってはいるのである 埋め方がわからないのである