『枯れ葉』で改めて思ったのは、やはりあの喋り方をするとみんな棒読みに聞こえるんだな…ということの凄さ。俳優変わっても全員同じ表情で同じ話し方をする。何だろこの計算し尽くされているところをスコンと射抜く感じ。横並びの位置からくる視線の合わなさとか、ライティングの美しさとか、細部までバシッとしてる…ような人じゃないと「おとぼけ」はできないんだよなあ。皮肉でもなんでもなく人間に大切なことはこれだけだよ、が過去作よりも濃厚に見えて、縮小再生産であること自体が凄みにもなってるように思った。
とはいえアルマ・ポウスティは比較的にこやかなヒロインではあるし、ちゃんと言葉にする人なのでおかしなことにはならない。そのぶんよりシンプルな愛が際立つのかも
アンサが後ろの恋人たちのほうを見て表情を曇らせる、みたいなこと一切しないとこすごい好き。彼女はこちらを向いていて、観客しか知らない画面になってる。表情を変えさせないための画面設計(またあの恋人たちの女の子が男の子の肩に頭を乗せる、ただそれだけの愛の映し方なのがね、最高)
物語がシンプルであるがゆえに、というのもあって気づけば字幕を見てない瞬間が増えている。視線が誘導されている。計算しつくされている。にもかかわらず、本当に気軽に撮ってるようにしか見えない。いや凄いね。