目に付いた差別にNoを突き付けるのは当たり前の事として、目に付いた人権侵害が”すべての差別”だと言える時点でナイーブ過ぎるのではないかと。
んだもんで”すべての差別に反対”という言説事態が欺瞞だ、と私は以前言った覚えがあるのですが。
まあ、好きに解釈したらええんと違いますかね。

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すべての差別、というならば、silence is complicit なわけで、目に付いたすべての差別だけでも見て見ぬフリをしない事が本当にできるか、と言われれば、残念ながら私自身はNoですね。
努力はしてるけれど。
あの時、立ち止まって介入した方が良かったんじゃないか、と後になって悶々とすることが多々ある人生です。

なんというか、言葉の重みというか。

小学生が”数学が難しいんですけどどうしたらいいですか”とアルバートアインシュタインに聞いたら”私もそう思ってます”と答えたとかなんとか。

または、お釈迦様の弟子で付き人を何十年もやったアーナンダ尊者が”先生、縁起の法則は複雑ですが、いま私には手に取るように分かる気がします”とお釈迦様に言ったところ、”アーナンダよ、そう断言してしまうものではありません”とクギをさされたり、とか。

実践してる人と実践してない人の言葉の重みというか、そういう問題があるのでなんとも難しいのですが、敢えてその道を突き進む方をdisる意図はない、ということは言わせてください。

ああそうか、端的に言ってしまえば、”すべての差別に反対します”という響きは”all lives matter”的な響きとカブるんですね。
少なくとも私にとっては。

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