Kāyena vācā cittena,
pamādena mayā kataṁ
Accayaṁ khama me bhante
If, due to negligence, I have done some wrong, by body, speech, or mind,
Forgive me of that offense, O Bhante
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Ratanattaye pamādena,
dvārattayena kataṁ,
Sabbaṁ aparādhaṁ khamatu no bhante.
May the Triple Gem forgive us for any wrong we have done to it out of heedlessness in thought, word, or deed
テーラワーダで懺悔するときの常套句。
2パターンあり。
美しいのは、
Ahaṁ khamāmi, tumhehi-pi me khamitabbaṁ.
I forgive you; may you all also forgive me.
それを受け入れ、なおかつ「私も気付かずに至らなかった所があれば許してください」と返すところ。
日常生活ではなかなか、ねえ。
腹に溜まった澱とか言いましたが、朝鮮文化のハンというのがまさしくそういうものであり。
これは前にもどこかで書いたと思うのですが、ハンを解く、ハンプリという行為があり。
このテーラワーダのリチュアル的なやり取りもハンプリ的な何かと言えるのではないかと。
更に言えば、例えばキンボットンさんとか元日本軍性奴隷の方々は、日本に心からの謝罪と、もう繰り返えさない、という意識を示してくれ、と訴えておられたのですが。
これはまさしく、あなた方も人間であるならば、正しく生きましょう、お互いに楽になりましょう、という意図があったと思うんですよね。
しかし、キンボットンさんはじめ、多くの方々は既にこの世を去られたわけで。
永遠にチャンスを失ったわけですよね。
fedibird.com/web/statuses/110887184770427912
たとえば事あるごとに統一教会は人の弱みに付け込んだクソカルトだと主張してますが、同時に日本の過去と向き合わない歴史教育の結果だとも主張してまして。
人が人として生きていて、顔や肌の色、言葉や着ている者が違くとも、おなじ人を殺す、という行為は深く人を傷付けるんですよね。
自己反省の機会を与えられないままの人は
”虐殺された死体が撮影された写真や映像のそばで、しばしば笑みを浮かべる日本兵の姿が映っているのは、「自己の平静を保つための解離的な症状で、被害者に感情移入しないように、その場から自らを引き離す防衛反応の一種と解釈できる」。その上で、「日本兵たちは、戦後も同じ解離的な笑いを浮かべることで、加害の記憶を突き放し、被害者への責任を排除し、自らの加害者性を否認し続けたと考えられる」とする。
残虐な加害行為をしながら彼らは自らの心の傷つきに目をつぶり、「『精神的に傷ついていない』と自分自身に思い込ませる必要があった」と説明する。
そして、北村さんは言う。「祖父は軍隊で身につけたやり方で、暴力や威圧的な言動を通して、家庭を支配していた」”
こういう家庭を生んでしまうわけでしょう。
大意としては、お互いに腹に溜まった澱みたいなものを抱えてさらにしんどい思いをせず、ここで精算してお互いに楽になりましょう、的なものだと理解してるんですが。
常套句とはいえ、もうしばらくは会えないだろうな、という別れのタイミングでお世話になった先生とかからこれを言われると、グッとくるものがありますね。