最近、編集さんに「こうすればもっと伝わると思います」「もっと読者に届くように」と言われすぎて、「伝わる」「届く」という言葉が苦手になってきた。
(わたしも短歌教室で「あなたのやりたいことは、こうしたらもっと伝わると思います」という言い方をよくしていたのだけど、適切ではなかったかもしれない……)
わたしのやりたいことは「伝える」「届ける」ではないのだよな。では何がしたいのか? と思ったときに真っ先に出てくるのが「破壊する」「転覆する」とか「傷を残す」とかなんだけど(物騒)。
脳内の指示系統というか伝達組織というか、そういうのを破壊したい。
わたしは別に自分の脳内にあるものをいったん設計図に起こしてそれを読者の脳内で正確に組み立て直してほしいわけではない。言葉は、言葉ではないものを伝達するための道具ではないから。言葉にしかできないこと、言葉にしてはじめて生まれてくるものをやりたいから。
わたしが作りたいものはむしろ癌細胞だと思う。DNAの正しい複製みたいなのを妨げたいのだと思う。
『ユリイカ』の奇書特集の依頼が来たとき、実はちょっと困ったのだけど。
「奇書」とか「難解」「読めない」と言われている本を読んで、「なんだ、読みやすいじゃないか」と拍子抜けした経験が割とあって(別に何でもするする読めるわけではなく、読めない本もいっぱいある)、自分の中に奇書という概念があまりないから。
むかし創元ファンタジイ新人賞に応募する小説を書いていたとき、ちょっと読みづらいかなーと思ったけれど、たまたま『紙の民』とか『ハザール事典』とかを読んで、やっぱりこれくらいやってても普通に読めるんだな、じゃあ余裕だなと思ってアクセルを踏み込んだら選評では「読みにくい」「何が起きているかわからない」と散々だった(実験的なことをやっても読めるようにするには高い技術なので、そこが
足りていなかったのだとは思う)。
読みにくかったり入り組んでたりする文章を読むのも書くのも好きという話なので、どんどん読みづらい方にアクセルを踏んでしまうという話です。
しかし創元ファンタジイ新人賞で「何が起きているかわからない」と言われたのは可読性をほぼ無視した自分が悪いので文句はないのだけど、「読んでいて映像が浮かばない、ビデオゲーム世代の著者は頭の中にある映像をそのまま書けば読者に伝わると思っているのだろうが、文章には別の技術が必要だ」といった旨を書かれたのは納得が行っていない。
わたしはビデオゲームの類に一切触れずに育ったので……(それがいいとか悪いとかではなく)。おとなになってからスマホゲームは二種類やったことがあります、きせかえゲームと古代生物を進化させるゲーム。
当時20代だったからといって雑な世代論にされるのは嫌だったし的外れだった。
読んでいて映像が浮かばないのは、自分の脳内にある映像を読者に伝達することに興味がなく、ただただ文章でしかできないことをやりたかったから。登場人物の容姿とかは書きたくなかったからほとんど書かなかったし。『冬の夜ひとりの旅人が』の冒頭で、書き手が駅の描写に困って何度も書き直して、そのたびに駅の様子が変化していくところがあって、そんな気持ちだった。すでにある映像を言葉にするのではなく、何もないところから言葉で何かを呼び出していく(言葉が変わると景色も変わる)という。
それで「視覚」のエンデと「語り」のトールキンを比較して、若い世代の書き手には「語り」の意識がもっと必要だみたいなことを書かれていたのだけど、わたしもトールキン研究者のはしくれでして(審査員の先生もトールキン研究者なのだけど)……。
わたしの関心のあるのも「語り」で、トールキンへのリスペクトである種の偽典というか、偽の歴史書みたいな形式にしていて、出来事が語られて物語になっていくところを書いたんですよね。
複数の視点からの語りや複数のテクストがシャッフルして挟み込まれていて、語りが入れ子構造になっていて、誰が語っているのかよく読まないとわからないようになっていた。
まあ本格ファンタジイの賞の応募作で『冬の夜ひとりの旅人が』をやられても困るし、本格ファンタジイで映像が浮かばない語りを読まされるのはストレスフルだなということは今ではわかるのだけど、その読みにくさは関心が「語り」に偏っていることに由来しているので、この選評には納得いかないなと思ったのでした。
今度出る『奇病庭園』は長篇であり連作掌篇でもあり、読者の頭の中で色々並べ直したり好きなところから読み始めて好きなところに飛んだりできる仕様なのでお気に入りです。