「むしろ、ほとんどは「生きかた」をどうすべきか、とのんびり選択している余裕などなかった女たちが、困難と苦しみの生の条件を逆手にねじ上げて、自分を生み出していった過程を、こころを開いて語ってくれるのを聞いたわたしという個人の体験を、まず共有してもらいたいという衝動のほうが強かった。とにかく、声を聞いてほしいと。」『新装版 ペルーからきた私の娘』藤本和子 晶文社

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『新装版 ペルーからきた私の娘』藤本和子 晶文社 
読み終えた。すごくよかった。ペルーで養子の赤ちゃんを迎えるエッセイ、60年間アメリカの精神病院で過ごした日本人男性の語りを「聞けなかった」こと、『アメリカの鱒釣り』翻訳のこと、など。
とくにアメリカの精神病院で過ごした日本人男性のエッセイがよかった。著者は『塩を食う女たち』という北米の黒人女性の聞き書きも書いているひとで、多くの言葉を「聞いてきた」人でもあるけれど、だからこそ「聞けなかった」ことが記されるのがよかったと思う。
参照のリンクの言葉がすごく残った。女たちの言葉や体験を「共有したい」のではなく、それらを聞いた自分の体験をこそ、まず共有したいということ。
聞いて、書く、知って、書く、というときに、自分が聞き手、受け手になった言葉たちをダイレクトに読者に伝えられる、と思ってしまうけど、でもそうではない。他者の体験や行動は決して理解できないし、わからない。それらは「聞いた(知った)」という体験しか手渡せない、ということなど。
[参照]

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