『悪は存在しない』の田舎スローライフ/うどん屋/コンサルの3要素は、映画業界における地域とつながっている映画/ミニシアター(関東からやってきて開業という要素はいかにも重なる)/シネコンに重なるようになっていて、その構図ゆえに、湧き水うどん屋をこの作品は皮肉ることは困難でありコンサルに対してはどちらかというと悪の表象をかぶせつつ「でもシネコンで自分の作品を流してるんだよな~」の引け目を入れてくるだろうことが予想される。実際その構図に大まかに収まるように話は展開した。
あとはシカを極点とする自然/文明の対立で作劇をおこない、自然に善悪の彼岸を置かれる。したがって、シカのそばであっさり人が殺されかかることは自然の発動であって「悪は存在しない」ことになっているわけだ。
このときのミニシアターの比喩と対比すると、『Cloud』の転売屋主人公は映画泥棒とか割れ厨かなと。適度に薄汚れた小売業者や客(映画業界人たち)が集まって転売屋を私刑にかけるが、みんな破滅するエンド。
悪存におけるコンサルといった「より上の悪」すらいない――いや、それっぽいのがいるにはいるんだが書割くさすぎて内実がない。『蜘蛛の瞳』の謎右翼ヤクザよりもさらにダメになったし、90年代仕事は「Vシネやヤクザ映画をすかすかの虚無にする差異化」でやれていたことが今や判明してしまう(ただしこれは深作欣二のあとでスカスカ化で仕事をした北野武にも言える)。こうなると悪の不可視化が気になるので、もっと可視化しろやと私は不満になった。
あと、女性一人しか出てこなくて、しかもロールモデルが昔の映画の「情婦の裏切り」なのも目に付く。これは古臭いと言われて然るべきかなと。途中で転売物品に美少女フィギュアが出てくるんだけど、フィギュア市場とこの作品同じやんとなるし、そこまで入れて操作できてるかっていうと疑問に。
あらゆる作品に対して、ジャーナリズム言説との対応関係を見出すことは可能だが(それで還元できるという意味ではないし、還元と捉えてジャーナリズム要素を忌避して削ると保坂派みたいになる)、Cloudは「転売やだねー」「これだからアマプラ業者は!」の井戸端会議が対応してて、そこに止まんなやと。でも、「すべてがしょぼい日本の現在の戯画」にはなってる。そこは意識してそう。でも黒沢清だからその種の操作が凄いところまではいかない
黒沢清オタ向けにトークするならおもしろポイントはけっこうある。
リメイク蛇の道のあとだと、リメイク版で「怪物化を手助けする者ー手引きされて怪物になってしまう者」のカップルが鮮明になったが、今回の主人公周りでも起きているし、最後の地獄の幕開けと車上シーンで終わるのは『クリーピー』の終盤の移動と『蜘蛛の瞳』ラストを足したようなものにも見える。『蜘蛛の瞳』ラストで作業員の姿で軽トラに乗っている場面は「何か悪の結社に就職したんか?」と思ったものだった(単に働き出しただけ)。というか、この時期の作品は「転職エンド」が結構おおいな…。
昔のハリウッドみたいな「湖畔の豪邸」の今の日本らしいスケールダウンした舞台、とかそのへんのセレクトはちょいおもろい。
今回の主人公が転売屋で、モニターと睨めっこしてるのは、FXと違って物を触ったり動かせるのが手頃だったんだろうな、なるほどなとか。
転売屋を、日本ガチ終わってる感のアレゴリーにするのは面白いが展開がな~となるな。
黒沢清の社会的主題操作の根本的弱さが何に由来するのかは、だいたい把握できたんだけど、形式と展開の手続きに由来する面が大きい。
復讐もホラーもどっちにせよ、黒沢清作品は一定の規則やシステムが作動し始めてから、ゲームの規則の運動がメインになっていくところに独特の質感を与え、特にCGのようなビジュアルでも何でもないのだが世界観が半ば抽象性を担い始める。その半抽象とでも言うべきものが達成であり、面白さなのだが同時に限界にもなっている。
この手続きでしか物語を描けなくなっていて、物語序盤からの客の目を引くフックであったリアリズム属性が全て足がかりに終わってしまいがちになる。
半抽象化していく過程と、それが初期の想定を大いに裏切って躍動的に展開する局面がハイライトになる。今回は、よくわからん部下に導かれて主人公が人を殺し始めるのが光った。