クリエイターものの漫画への嫌悪が掴めてきたが、マンガの自伝ものやクリエイター神話は『漫画家残酷物語』に始まり、『まんが道』で広く浸透するが、『まんが道』は手塚を讃えることとコンビの友情ものにすること、不器用なビルドゥングスロマンであることでバランスが比較的マシになっている。だがまんが道をなぞろうとすると、「大人の自分」を終着点とする亜インテリの自己追認に終わり、青年誌漫画のプロパガンダめいた要素が露呈することになる。青年誌にはイデオロギー批判の風土が欠落している欠点も大きい。

だが、このクリエイター表象があくまで擬似性や遊戯として捉えられているのであれば、全く状況が変わる。具体的には、「マイクラみたいななろう漫画」と同列に扱われるなら怒りが湧かなくなる。異世界のんびり農家も、こんな農業ねえよ、都合よすぎるわーとみんな知りつつ半笑いで、ゲーム感触の楽しさを認めて許されているわけで、そこで描かれているのは農業そのものではない二次的な行為性だ。
そうはなっておらず、クリエイターものは真顔で受容されているのが耐え難い。売れない漫画家が「藤本タツキ…やはり天才…」とか言ってるから、ルックバック受容は一層きつい。ものづくりイメージにはイデオロギー付着しやすい点でも重なる。

ルックバックと細田守のうさんくささや疑義をみんな言いがちなのは「ミドルブラウのオーラを放つとそれを褒める自動性がきもい」とか「これ、ロウブラウなのにミドルブラウ扱いされてね?」とかが絶対に混ざってるんだが、そういう語彙が確立されてないから、倫理的な不備を突く言葉ばかりが跋扈してる。
すべては「文化と階級」の問題系が消去されているからだと思う。

アーティスト神話ものは「日本的ミドルブラウ適応っぽい何か」の臭みを放ってるんじゃないか?と思う

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だとすると、「自らロウブラウ化してしまうと、案外許せる」になりうる。

私の「マイクラもののフィクションと同じ認知になると怒りは湧かない」はその筋での解釈だな。 fedibird.com/@ttt_cellule/1123 [参照]

ミドルブラウというのは、別文脈ではキッチュの別名(グリンバーグはエリオットやウルフらのハイブラウに立脚しミドルブラウを拒否する言説の延長でキッチュを論じていた)。また、20世紀美学は、「ミドルブラウの中途半端さをハイブラウとロウブラウの両方の達成のもとで厳しく査定する」という面があった。

他方、オタクコミュニティにはロウブラウを手中に収めつつ、ミドルブラウまでの達成で留めるべき、ハイブラウは排除すべき、とする抑圧体制もある。いまではオタクファンダムは「かつての20世紀末日本までの中産階級的なミドルブラウカルチャーの厚み」を代替する秩序となっており、暗黙にミドルブラウ規範を志向している。「国民的」文化であることをしきりに誇るのは示唆的だ。また、ミドルブラウ規範の線で考えると、オタク類型を長らく一昔前の「小金持ちの子供」を下敷きにしていたことも整合する。

だがこの階級的条件はすでに崩れているため、若い世代はかつての小金持ち規範に共感性が低いだろう。ここで見ると、ウェブトゥーンやなろう、ウェブ漫画のトレンドはロウブラウが再導入される経路となっていることや、それらに見られる限界生活要素(逆位置にセレブ羨望や成り上がり羨望も見られる)やある種の安っぽさを湛えた作品が顕揚されるのは、ミドルブラウ基準へのカウンターや別のリアリティの誇示といった射程からも考えられる。

「オタクコミュニティが愛する20世紀末〜現代のミドルブラウの指標・達成」作品の系譜もあるのだが、ルックバックは貧困や安っぽさの見せ方次第でさらにズレる現代性を発揮する?余地も発見されうるかもしれない。

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