なんか学生のころにビジネス書の上位互換と見立てて野中郁次郎のナレッジマネジメントの本を読んだなあと思い出した。

その10年後ぐらいに、私は作品や批評を労働と対立的に(聖/俗みたいに)見立てるのをやめて、むしろ同じものとしてみなすようになっていった。分解可能な単位や属性の措定を作品や言説、発話行為に対して見出す作業をどんどんやっていき、SNSはもはやそういう吟味と掌握のサンプルの場に見えていたわけだが、この種の「作品やその愛着/労働」の区分の解消こそが、多くの趣味人・文化通の人にとって嫌なことなんだろうなと思う。

日々の労働や苦役が人を単位や属性に割り振って処理するものであるからこそ、作品や愛好の語りにアジールを見出そうとする。むしろ全人格的であるべきであり、人生を感じるものであるべきであり、コミュニケーションと良識の場であるべき、となる。私はいわば積極的にその縁、ボーダーの方に行くアプローチだな。

資本主義化したのかポップカルチャーがサブからもはやメインになったからなのか、労働・仕事になってる
深夜アニメ今期の録画して見返す、やらなきゃいけないことが多いスマフォゲーム…

フォロー

@mumumu4yyk いや、そういう話じゃなくて、愛着や実存をベースにして作品やジャンルを把握してると、自分の老化に左右される軸しか作れないし、技能のフルコントロールや愛着によらない吟味作業を徹底化させるといいという話。そしてその種のことを説明するには、「労働と同じタスク処理」の面があることを飲み込む必要がある。

それが嫌な人はそもそもラーニングを放棄しがちになる。愛着と関係ないし剥奪されるからという理由で。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。