- 世界や科学法則は人間と独立に存在しており、それは人間に無関心である。神は存在しない。(同じくマッカーシー的主題)
- 私たちは、ほぼ無尽蔵の生まれなかった子どもたちやそれ未然の胎児や父と母の体内の闇の中で消えたの屍や魂の群れの中でのたうちまわりながら生きている。(創造は生殖のエネルギーの代替である)
- それでもなお、私は生きなくてはならない。私はこの世界の証人だから。(世界は私なしでも存在するが、私の観点や思考は私が死ねば消えてしまう)
- 物語と言語は、人間が世界に持ち込んだ最高にして最悪のテクノロジーであり、原罪である。これは無数の生まれなかった命を作り出すことになった。本来世界は無意味なのに、そこに意味を与えてしまった。
- しかし、物語ること、言語を使うことは、生まれなかった命を作り出したこと以上のーーいや、これは数や命の質を問うているから優生学と何ら変わらないからダメだーーだから、それとは別の"何か"があることを証明しなくてはならない。(でなければ、私たちの命とはなんなんだ?)
@mizuharayuki 私は泡沫作品ばかりを読んでるからか、フィクションは言われるほど自律的じゃなくてコミュニケーションの代替や延長にすぐになるし、実質的に共同体の祭具にすぐに収まるし、人の代わり(つまり人形)のモメントもでかいし、「フィクションすなわち虚構であり事実とは別の次元を〜」というふうに初手で考えなくなってるなあ。ポテンシャルを見込もうとすると、その初手が選ばれがちだが、実際には覆い隠してしまう諸論点多すぎなのでは?と思うこともしばしば。
@mizuharayuki フィクション論からちょいずらしつついい知見を得るには、人形論を触れるのがわりとおすすめ。たとえば菊池浩平『人形メディア学講義』とか金森修『人形論』など。
東・村上の水子云々はデリダの散種からの改造だし、大塚英志のキャラ論はほぼ人形論にありがちなロジックの改造でできてるよ。
@ttt_cellule ありがとうございます!! 確かに「フィクションの価値」的なやつを信じている人間じゃないと出てこない発想ですねこれは。
@mizuharayuki いやー、なんかもういろいろ言いたいことあるんだけど、文字にするとスーパー面倒だから大変なことになるな…。
端的にまとめると、私はキャラクターをフィクション固有の特性だと思ってなくて、キャラクターに人が関心を持つのは、人が人に関心をもつ回路の流用であり、それはフィクションでのみ起きることではない、とまず考えるのね。
だから、フィクション固有としてのキャラ関心なら人形論に還元されるよね、と逸らして整理できる。
私は「作品」にはかなり関心があるけど、作品ってフィクションとはまた位相がズレやすいよね。ステージプレイやパフォーマンス、(歌詞もない)音楽、造形物、詩は作品ではあるが、フィクションがどうかというとわりと欄外あるいはスレスレになる。
となると水原さんのいうフィクションは、短編長編を問わず小説とそれに対応する他メディアの形式のことを指し、物語があり登場人物がいて…という要素を揃えたものだと思う。語りもの文芸も含む。
@ttt_cellule キャラクターはフィクション固有の特性か、という話は私もそうだと思います。人間に対して使っている回路がバグって流用されている。だからフィクションのキャラクターへの関心は人形論に、本質的には還元できる。そこに「人形とキャラクターは違うんじゃないか?」ということを言い出す、ある種のアポフェニアを起動させると東-村上ラインみたいになるってことですかね。
んで、作品も結構確かにそのとおり。私の場合はゲームや小説を含む、そうした媒体の要素を揃えたもの、というのは間違いないと思います。たぶん路上ライブはフィクションと呼ばないと思う。
@mizuharayuki 通常、作品固有ということを考えるロジックはメディウムスペシフィシティだよね。
大塚と東はそこで「オタク作品はキャラがメディウムの固有達成」とやったわけ。ここにはトラップと巧妙さもあって、じゃあ映画は?小説は?というアンサーが即可能になる。スタンダールもプルーストもキャラ強い。文芸はもともとキャラが強いメディウム。つまり、文芸的クライテリアによる統合が暗黙にある。映画もまあ「20世紀における小説の覇権」のバリエーションで収まる。
つまり大塚と東の議論は鵜呑みにするわけにはいかないし、オタクカルチャー固有だというのは誤りだ(オタクカルチャーにキャラの達成がないという意味ではない)、とまずずらした方がいいと思う。
で、私は要はキャラはとにかく強くて、国語教育もアニメ考察もみーんな「この人についてどう思うか」みたいな審級で生成されてる。10年代前半の批評学生も現在のセクマイ系の語りも同じ。「このキャラの行動に痺れた」みたいなのばっかり。ぶっちゃけ作品読解の知すら必要とされてないぐらいにこの平面から文が生成される。
@mizuharayuki 啓蒙やビルドゥングスロマンにおける人格陶冶ですら「主人公の精神の変化に合わせて自分も成長する」みたいなロジックだし、そもそもこれが国語教育のプログラムの原型でもある。
で、キャラや人への関心の持ち方って、それ自体はフィクション固有ではなく、好き嫌いや愛着もわりと非フィクション的な次元からの援用でなんと説明がついてしまう。
逆にいうと、徹底してジャーナリズムイシューで作品を語ることができるのも、キャラの行動にチェックシート的に裁くこともできるのもこれに依拠する。
フィクション固有だと思われているものは、見る・読む側にとっての自己帰属感とか没入とか自分のアバターにするとかの関係がわりと大きいので、わりと人形の問題系でけっこういけてしまうw
@mizuharayuki フィクションという言葉は人を惹きつけるんだけど、けっこうガバガバに吸引してしまうところがあって、自分はフィクションに関心があるんだ!と思いがちだが、分解していくと、これってフィクション固有なんだろうか?とよくわからないことになる。
お笑いとかYouTuberとか語りものは、要は「人は人のしゃべりなら聞ける」に由来する間口の大きさかよー、とおもうし、ステージプレイやパフォーマンス、ステージ歌唱は「演者が人だから抵抗がない」由来かよーみたいな。
さらには人の話への抵抗の少なさは、人間が社会的動物であるためだよなーみたいな。
で、私はわりと人間要素を除去して作品固有のモメントを出せるか?とトライしがちかなー。しかし人類の95%はそんなもの必要としてなくね?とか思えるし、「ノンフィクションの本が好きでフィクション興味ないっす」の人とかも、人の関心で史伝やビジネス本を読んでたりするわけで、「それフィクション好きの人の回路と大差ないわ」となりがち。
@mizuharayuki まとまりがないしこのへんで終わり。
ウォルトンのフィクション論も行為や合意なんかの話に傾斜するし、いわゆる物語論じゃないんだよね。そして、むしろミクロな行為の集合が物語なのでは?ぐらいに認識が変わるとも言えるが…
@mizuharayuki 「フィクションへのこだわり」と自認してることって、まじで「別の知からいけたわ…」となりやすいので、私は非人間主義とか物のエレメントにまっしぐらになってる。それはそれで「たいていの連中は骨董趣味の言説空間の翻案で回収できるわ」とみてる
@mizuharayuki 人が作品に見出すユニークネスやこだわりって、聖遺物や聖人伝に人が示してきた執着にあまりにも似てるので、近代の世俗化以後に車輪の再発明してるだけなのか?と思うこと多いよ。
私はたいていの愛好者集団をアーミッシュに還元できると思ってる。
@mizuharayuki つまり、このへんの私の関心はフィクション論っぽいんですよ。そう宣言はしてないけど。https://twitter.com/ttt_cellule/status/1731518527604203550?s=46&t=5mSltbi1UVoy9J3RPXDKUQ
@ttt_cellule うーん、確かに正論です。「フィクション」という言葉が飲み込んじゃう、覆い隠しちゃう射程がデカすぎるというか、もっと細かく踏み込んでいかないと誤認逮捕みたいなことが起きる。全部はまだ読み切れてない/理解しきれていないんですが、そこをまず自分の中でブレイクダウンしないと駄目そう。「お前のフィクションとは何か」ということ。
@ttt_cellule んで、キャラクターの話のところもたしかにそうで、僕もあれは特別な回路というより死んだ人間や生まれなかった人間みたいなものに対する回路を同様に駆動しているだけだ、と思います。
そうすると対人のモチーフとまったく変わらなくなってくる。単に表現というか表象としての形態がちょっと違うだけで根本的なところは一緒。だとしたら「生まれなかった子ども」が「キャラクター」の論点とつながっているというよりそれはもう同一のもので、という形になると、別に独自性があるわけではなくてレイチェル・カーソンとかに似てきちゃう
@ttt_cellule 自分が書いた最後のやつは、千葉雅也的な(?)「創造は性欲の代償行為」というか、そのエネルギーが創造に向かう、という考え方があるとして、そのときに「創作や文明を発展させる行為は、性欲を消費させて未然の殺人を行っていることになるのではないか(生殖を行わないことで未来への投資をしている)という倫理的ジレンマ」について今考えているんですが、これは人間が持っている生得的機能から生じたアポフェニアで、しかしそこに生まれざるものたちの存在を見出してしまう、ってことと変わらないよな、とか思うし……。
@mizuharayuki 千葉のそのへんの議論は追ってないけど、その話を聞く限り、フロイトの昇華概念そのまんまだね。昇華だとリビドーを性衝動を脱性化して文化的活動に返還させる。20世紀だとマルクーゼの脱昇華があって、マルクーゼは昇華は文明による抑圧だから性衝動に戻せ、とひっくり返す(要するにセックス&ロックンロール)。その議論は、そこにもう一捻り加えて、生殖に結びつかない性衝動や昇華、創造は、擬似的な生殖であり、あらゆる生産性に生殖と子殺しの影がちらつく、という筋立てかなあ。
とはいえ、人は労働するたびに生殖のことを考えるか?という疑問も生まれるので、労働と制作行為の分割と、後者で生まれるものに人は自分の分身めいた愛着を覚えるのを、子供への感情だと混線させることで伸ばした話にも思えるなあ。別にそれが間違いとも思わないけど、それは作品と自分の分離の主題からでもアプローチできそう。
@mizuharayuki たいていの人って作品を完結させたがらないし、公開したがらないところあるじゃない? あれは自分と切り離したくないからんだと思うよ。切り離すと、「自分の一部としての作品」じゃなくなる。でも作家になる第一歩はなんでもいいから仕上げること、公開することだったりする。よく言われることだけど。