クリエイターものの漫画への嫌悪が掴めてきたが、マンガの自伝ものやクリエイター神話は『漫画家残酷物語』に始まり、『まんが道』で広く浸透するが、『まんが道』は手塚を讃えることとコンビの友情ものにすること、不器用なビルドゥングスロマンであることでバランスが比較的マシになっている。だがまんが道をなぞろうとすると、「大人の自分」を終着点とする亜インテリの自己追認に終わり、青年誌漫画のプロパガンダめいた要素が露呈することになる。青年誌にはイデオロギー批判の風土が欠落している欠点も大きい。

だが、このクリエイター表象があくまで擬似性や遊戯として捉えられているのであれば、全く状況が変わる。具体的には、「マイクラみたいななろう漫画」と同列に扱われるなら怒りが湧かなくなる。異世界のんびり農家も、こんな農業ねえよ、都合よすぎるわーとみんな知りつつ半笑いで、ゲーム感触の楽しさを認めて許されているわけで、そこで描かれているのは農業そのものではない二次的な行為性だ。
そうはなっておらず、クリエイターものは真顔で受容されているのが耐え難い。売れない漫画家が「藤本タツキ…やはり天才…」とか言ってるから、ルックバック受容は一層きつい。ものづくりイメージにはイデオロギー付着しやすい点でも重なる。

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まんが道が白手塚イメージを構築して自分の中心性をそらせたことが大きい。また当時の藤子Aは毛沢東伝も書いて中国の民衆プロパガンダ絵を取り込んでいたが、まんが道をなぞろうとした漫画家は、そういう要素が単に青年誌イデオロギーのプロパガンダに堕するのが定番になっている。
『ブルーピリオド』はそういう意味でちょっとマシになった状態だった。トリガーは「美大解像度を上げる」。

漫画家の私小説相当ジャンルはだいたいエッセイまんが様式で出てくるが、たまにクリエイター神話ものにするとそれが王道扱いされるバグがあり、これは「私小説=真正」のコードの産物だろう。

「現在の自分を追認」と「青年誌イデオロギー」は、stand by me描くエモンとか、花澤健吾のアイアムアヒーローみたいな自意識こねくり回してる路線にも濃厚に現れている。「俺の現在」を終着点にすると、青年誌で活躍している俺、すなわち、青年誌イマジネーションが世界の真実!というプロパガンダになりやすい。要するにエロと仕事とアウトローと家族だ〜みたいな。参照ジャンルが世界の真実にされてしまう。「俺、それで食ってるし!」を背景に。

青年誌って、そういうイデオロギー批判への素地どころか、そういうプロパガンダと私小説モードをやってれば偉いかのような歪みがある。

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