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ライフステージごとのアドバイスを考えていくと、たとえば30-40でなんら人文学学んだ形跡なし、作品を見ることとSNSの考察しか触れたことしかないし、没入や同一化の楽しみしか知らない、という人に、独習で何かを身につけることを勧めても、独習のやり方もわからないだろうから、なんらかの読書会などのサークルに入らせた方が良い、といった処方箋になりやすい。

結局、独習能力はよほどいろいろやってる人でないかぎり大半は持ってない。とすると、学生時代に何学部で何を学んだか、それと趣味がどう関連しているかしていないか、といった属性でほとんど知的な構えが規定されてしまう。

そして、「趣味」形態は、労働と余暇の分割と役割付与に大きく規定されていることが多い。痛ファンとか推し行為の危うさも、労働/余暇・娯楽が、俗/聖に仕立てられてしまうことが大筋を規定していそう。

批評とかライターの人間は、リサーチによるユニット作りを一日に何個もやっておいて蓄積していくふうになってて、それが娯楽と仕事不可分になってる。

他方、普通に働いているひとは日常的に労働として同時進行マルチタスクをたくさん抱えているわけで、そういう処世と娯楽を切り分けたくなる。そこで、切り分けが「批評とかしね」と いう 形 で(娯楽エリアを脅かされないように)発動する。日々を癒やす娯楽に労苦っぽいものが混ざるのは嫌だという拒否、拒絶が初手に組み込まれる。

ファンダムの言説秩序はこの種の「労働と排他的に切り離された娯楽」側面の増大を目指すものなので、快の最大化は目指すが、不快や齟齬を持ち込むことは入念に除去されて総体が持続しているし、作品は過剰に美化・理想化される。労働の反動で美化が推進される。しかしそういう美化こそが「労働によって規定されている」と見ることも可能だろう。

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