このサーヴェイ論文、面白かった。

モダニズム美学からだとエモーション論の路線が即反動に見えることとか、80−90年代日本脱政治モードからだとバカっぽく見えるものを価値反転させる手口なんだなと思わせる。

普通に読んだら、「アメリカの抽象表現主義がパトスと呼ばれて延々、内面性だと当時論じられたが、グリンバーグによる議論とポップとミニマリズムで揺さぶりをかけて過去にしたのに、元に戻るのか?」と反動的に見えるし、エモーション推し勢がそもそもエモーション/理性の対立を維持した上で、「理性と言語の偏重で不当に無視されたエモーションを」に持って行ってるのが微妙なんだけど、こういう議論もわりと新唯物論を押し出す時に使われがち。トラウト論で議論を切り開く時にも。

だが、ジャンマリー・シェフェールのフィクション論が、登場人物と行為を中心にすることで文学とゲームをまたがり、メディウムスペシフィシティを解除していたり、行動、感情、その道徳的側面を問う射程を提示していることを考えると、インターネット以後の暴力への感度と人称的次元の上昇に対応した議論趨勢として並行性があるというふうに考えられる。

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ジェーン・ベネットのミメーシス論でも出てきたが、「かつてエンパシーは道徳感情の育成で大事だったろ」といった論脈の復活も連動しているんだろう。この論考でら、ヌスバウムがディケンズについて語るのが紹介されている。

また、いまのSNSポピュラーフェミニズム批評の「人物の行為」だけで還元する手つきが、著者の紹介するエモーション論状況と呼応してるんだろう、とも当たりがつく。

アフェクトセオリーって、作品読解においてはエモーションあげと実は識別がむずいのかも?とか。

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