今福龍太の『クレオール主義』(1991)読んでわりと面白かったんだが、こういうのをブックオフに重ねても全然いけるだろうな。

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「置かれている境遇は異なりつつも、00年代のネット社会化と貧困、ブックオフの出現のあとで、同じような疎外の場所にいるように思う」とかなんとか言えばいいだろう。
ブリコラージュでなんとかするという発想には谷頭にも見られる。

で、この状況の裏返しに、過去の文化の真正化もはげしく進行しつつあり、それが、前世紀末っぽい人文・文化の古書店棚のレギュレーションが「型」になって根強くなてしまうことだとか、それを相対化する効果においてブックオフに魅了されているとか言えばいい(谷頭の本は、とにかく新刊書店や古書店とブックオフの対比ができてないので、「新刊ラッシュのほうがカオスでは?」「予期せず出会いなら古書店でも起きるのでは?」と一撃でカウンターを浴びそうな隙がかなりある)。

谷頭の本はとにかく調査不足や関連領域との突き合わせが足りなくて、ブックオフは今や文化のインフラ!と囃し立てるわりには、90年代末から大手取次のパタン配本をそのまま並べていたような小さな新刊書店やら電気屋を兼ねてたようなCDショップがバタバタ潰れて、コンビニがその後で残ったこと(そしてかつてのしょぼい書店の分布をブックオフは凌駕していないこと)すら書いてない。

大学図書館・巨大書店・古書店をクロスレファレンスできる書籍探索スキルは今なお物書きには必須だが、谷頭的なブックオフ推しの背景にはその秩序を切断してくれる破壊力への関心があるんだろう。それはそれで言語化すればいいのに、「問われざる暗黙の前提」になってる。こういう箇所が多い。

まあでも、こういう本はもっと出るぐらいでいいので、刊行されなければよかったとは全く思わない。

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