「声高でない」という言葉が称賛として使われていると、カナファーニー『太陽の男たち』の結末を連想する。それは本当に声高ではないものだったのか。小説ではなく紹介文を読んだのみだけど。映画だと結末は同じでも少し演出が違うそうだ。

ちょうど昼間に徐京植氏によるカナファーニーについての文章を読んでいて、その中で『太陽の男たち』にも触れていた。

『太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー 

 “『太陽の男たち』は、生きんがためにクウェートへ密入国を企てた三人のパレスチナ難民の死を描いている。給水車の空タンクに身を潜めた彼らは、運転手が国境の役人の気まぐれにからかわれて予想外の時間を喰っている間に、「助けてくれ」とも言わぬまま砂漠の熱に灼かれて死ぬのである。自らもパレスチナ人である運転手は三人の屍体をゴミ処理場に捨て、立ち去りぎわに叫ぶ。「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ、なぜだ」。その声に、砂漠がいっせいに谺する。”
徐京植

二十世紀の千人
言葉の力に挑む人々 7
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『太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー 

“「パレスチナ人であるということ以外に何の肩書きも資格ももたぬ民衆」の、この救いのない死は、パレスチナ人が全体として投げ込まれている運命を象徴している。

『太陽の男たち』は一九六三年に発表され、七一年には映画化されたが、原作と違って映画では、給水車からタンクを叩く音が聞こえてくる。ただし、その音は国境警察のエアコンの音にかき消されてしまい、やはり三人のパレスチナ人は死ぬのである。”
ガッサーン・カナファーニー 
パレスチナ人をくっきり形象化する(徐京植)

『二十世紀の千人 言葉の力に挑む人々 7』
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