“武相困民党の史料のなかには、須長の書き付けが残っており、そこには次のような有名な下りがある(『日本近代思想体系』21)。
「私立銀行・金貸会社においては、これまで窮民を圧倒する甚だしく、その返報〔報い、仕返し〕としては(一時に来す土崩瓦壊は、この掌を返すに似たり)一夜のもとに建造物は灰燼となし、一時のうちに斬に処し、骸は街の梟首に掛け、遺体は原野に鳥獣の腹を肥やし、その心地よきを見て、初めて懐復の志望を起こすものなり。」”
『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
“秩父事件は、あるべき仁政が行われないことに対する怒りや、自由党に幻想的な解放を求める民衆の願望が混ざり合って起きた暴力行使であった。しかし、すでに暴力の正当性が国家に集中しており、蜂起しても国家の暴力装置によって鎮圧されることは民衆レベルにも認知されていた。
訴願による仁政要求が認められず、暴力行使もできなくなるとしたら、問題解決の手段は何があるだろうか。この点について、安丸良夫は、秩父事件後に武相地域の村々で県からの節倹法が作られたことに注目している。”
民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
“序章では、通俗道徳が荒廃する農村を立て直すための思想として、近世後期に民衆のなかに浸透していったことを確認した。その通俗道徳は、明治期になると、このように公権力による統治のイデオロギーとして用いられた。自己責任の世界の到来を、あ「抑うつ的で緊張にみちた“近代”というものが、人びとの生を全面的に規制しはじめた」と安丸は表現している(『文明化の経験』)。”
民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html