なぜいま〈平和都市〉なのか?
仙波希望インタビュー(聞き手=齋藤雅之)
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“仙波[前略]テクノクラートの問題系というのは、当人がどういった思想信条を抱いているのかは関係なく、まずは「つくる」ということが先んじるわけですね。これは、何かをつくるすべての人に関連する話だとも思いますが。

[中略]

仙波 それが、平和記念公園をつくった丹下健三にもつながります。平和記念公園の空間構成の一番の特徴は軸線構造です。原爆ドームと原爆慰霊碑を一直線に結び、その線が平和記念資料館と垂直に交わるように設計されている。これは「平和の工場」と呼ばれていて、平和記念公園を象徴するものです。しかし、この軸線構造の原型は戦前にあります。それは1942年に丹下がつくった「大東亜建設記念造営計画」というものです。「大東亜」という言葉が入っているので何やらキナ臭い感じがしますが、それもそのはずで、これは大東亜建設委員会が戦意高揚のために実施したコンペに提出されたプランでした。そのときに丹下は、東京から富士山を結ぶ軸線構造を提案したわけです”

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“仙波 たとえば、女性史やジェンダー研究の文脈では、加納実紀代さんによる「〈銃後〉の女」批判があります。とりわけ戦後の表象において、女性は母であり女神であると一元的に表象されてきて、戦争において女性は被害者であると言われてきた。こうした論調を加納さんは批判します。” 

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 “女性には加害責任がないと言い切れるのか。これはたとえば、若桑みどりさんによる「戦争援護集団」としての「チア・リーダー」のような女性(像)に対する議論、あるいは70年代から80年代にかけて、地域女性史研究の文脈における議論なども取り上げてきた問題です。母性のようなものを一方的に肯定することには、ジェンダー的な視点からは当然危うい面がある。たとえば戦前の廃娼運動においては、遊郭で働いている人・場所に病理を見出すような議論も人々のあいだにあったわけです。こうしたことを考えたときに、果たしていわゆる「市民」は総じて無垢であったのかと言えば、決してそうではない。”

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