徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
note.com/k2y2manabe/n/nb14c348

 “私がこの話を持ち出すのは、しかし、レーヴィのメッセージを誤読する人々のように、被害者にも加害性があるのだから加害者をきびしく追及する資格はないとか、結局のところ誰が加害者で誰が被害者かを決めることはできないなどと言いたいからではない。レーヴィ自身、ナチが特別部隊のユダヤ人に大量殺戮の手伝いをさせたことは、被害者から、「自分は無実だという自覚」すら奪いとる「最も悪魔的な犯罪」だったと述べている。レーヴィはさらに、囚人の中の(ナチ当局への)「協力者」の行動に「性急に道徳的判断を下すのは軽率である。明らかに、最大の罪は体制に、全体主義国家の構造自体にある」と強調している。彼はナチ収容所体制というシステムによって人間性の破壊を経験させられた囚人のひとりとして、人間性の再建可能性について苦悩に満ちた考察を私たちに残したのである。それは、そのシステムを作り上げ、運用した加害当事者を赦すためではない。”

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徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
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 “日本政府が「植民地支配」の事実をしぶしぶ認めたのは敗戦から五〇年を経た一九九五年のことである。当時の連立政権で首相を務めた社会党出身の村山富市が記者会見で、「過去の戦争や植民地支配は『国策を誤った』ものであり、日本がアジアの人々に苦痛を与えたことは『疑うことのできない歴史的事実』」であると述べたのである。

 この談話は植民地支配の事実すら認めようとしなかった従来の政府の立場から見れば一歩前進と言うこともできよう。しかし、談話発表時の記者会見で村山首相は、天皇の戦争責任があると思うかという質問に対して「それは、ない」と一言で否定した。また、いわゆる韓国「併合」条約は「道義的には不当であった」と認めつつ、法的に不当であったということは認めず従来の日本政府の見解を固守したのである。この線、すなわち「象徴天皇制」と呼ばれる戦後天皇制を守護し、植民地支配の「法的責任」を否定すること、相互に深く関連するこの二つの砦を死守するための防御線を当時の日本政府は引いたのだといえる。”

徐京植「和解という名の暴力 ─ 朴裕河『和解のために』批判」
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 “これが、それ以来、日本政府が頑強に維持している防御線であり、いわゆる「慰安婦」問題においても国家補償をあくまで回避して「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)による「お見舞い金」支出という不透明なやり方に固執した理由でもある。国民が支出する「お見舞い金」は「道義的責任」の範囲と解釈されるが、政府が公式に補償金を支出すればそれは「法的責任」を認めることにつながるからである。ここで「道義的」という語は、法的責任を否認するためのレトリックとして機能している。”

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