食べることと出すこと
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あちこち飛ばし読みしている。そのなかで、著者は入院中ひどい目(内容を読むと本当につらい)に合わされた看護師に対して全く恨んでいないこと、そのような看護師は一人だけではなかったのに、すっかり忘れていたことを書いている。

 “看護師さんは実際に医療処置をする人たちで、かなり命を握られている。そういう人たちに、よくない人がいるとは思いたくない。みんないい人であってほしい。ひどい人なんか、ひとりもいてほしくない。
 
 そういう気持ちが働いているのかもしれない。今現在も看護師さんをすごく頼りにしているから、余計に。”

それ以上に素晴らしい看護師にたくさん会ってきた、と続いている。

この感覚と関係は、医療に限らず色々なところで起こっているのだろうな、と思う。個人ではなく組織に覚えた人もいたのではないかとも。

自分の処遇を意のままにできる人や組織が自分のことなど関心がない、どのように扱っても良いと思っている、敵意を持っている、そういう可能性がある、と思いながら生きていくのは大変なストレスだ。

柴田元幸がカーヴァーの小説についてそういうことを書いていたように記憶している。

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[前略]“だがカーヴァーの小説では、そのような権力者の姿はいっさい見えない。同様に彼の小説には、大都市もほとんど出てこないし、登場人物がテレビを見ていてもそこに何が映っているかはまず語られない。要するに、カーヴァーの大半の作品の舞台であるアメリカの小さな町の人々の生活を外から規定しているはずの大きなシステムの姿は、ほとんど見えないままなのである。
 にもかかわらず、突然の解雇といった、無根拠かつ必然的と言いたくなるような、いかにもカーヴァー的な出来事を通して、見えないシステムの網の存在を我々は確実に感じる。目には見えなくても、たしかにそこにある、善意はおそらくなさそうな、悪意か、無関心に染まったシステム。どうやらこれが、現代アメリカ文学における組織の典型的な貌(かお)であるように思える。”

『アメリカ文学のレッスン』
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